特集 | 西郷どん、西郷隆盛(南洲翁) − 目次(INDEX) |
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西郷隆盛(さいごう たかもり) 1827(文政1)年〜1877(明治10)年。幕末、明治維新の元勲、政治家で軍人。通称吉之助。南洲と号した。薩摩藩の下級藩士の長男として現鹿児島市鍛冶屋町に生まれる。 藩主島津斉彬 (なりあきら) の知遇を受け藩政に参画。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、復帰し、島津久光の公武合体論に抗して尊王攘夷運動に奔走。元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や慶応33(1867) 年 12月9日の王政復古に重要な役割を演じ、新政府参与、戊辰戦争では大総督参謀となった。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 |
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− 西郷隆盛 − | ||
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて、明治10年(1877年)9月24日城山で自刃した。死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。 |
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