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旅行記 ・致道館 − 山形県鶴岡市 2017.06.02
致道館
(国指定史跡)
表御門(奥が講堂、左手に聖廟、右手に御入間)
致道館(ちどうかん) 庄内藩の藩校。庄内藩酒井家9代忠徳(ただあり)が退廃した土風を刷新して藩政の振興を図るために文化2年(1805年) に創設しました。当初は現在の鶴岡駅前通り(鶴岡市日吉町)にありましたが、政教一致の趣旨から文化13 年(1816年)10 代忠器(ただかた)によって鶴ヶ岡城三の丸内に位置する現在地へ移されました。
講堂(奥)と御入間(右) 
約1万5千平方メートルの広大な敷地には、現存する建物(表御門 聖廟、講堂、御入間)の谷に、職員室、操揚生(終日詰生)室、舎生の寄宿する本舎、御台所、武術稽古所、句読所、書庫、馬場、矢場などがありました。明治6年(1873年) の廃校までの約70 年間、致道館は荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学風を伝承し、多くの人材を輩出しました。
藤沢周平さん(鶴岡市出身)の小説を彷彿とさせる美しい佇まい
致道館の生徒は数えの10歳で入学すると、まず句読所(小学校相当)に入ります。そこからは年数回行われる学業検閲に合格すれば年齢や修学年数に関係なく、進級・進学できる仕組みになっていました。終日詰生(中学生相当)は、1室6〜7名、外舎生(高校生相当)は1室2名、試舎生と舎生(大学生相当)は1人1室で自学自修に励みました。
 
孔子画と孔子像(聖廟)  
舎生(大学学部生か大学院生相当)はすべての公務を免除され、宿泊して修学に専念する決まりで、はじめは3年で1考、3考で卒業となっていましたが、時世に合わないとして、後に3年で卒業と改められました。諸藩が幕府の方針に従い朱子学を藩学とする中で、庄内藩は荻生徂徠の提唱する徂徠学を教学とし、廃校までこれを堅持しました。
建物の基礎跡
教育の特色は「天性重視個性伸長」と「自学自習」、「会業の重視」にあります。すなわち、生徒一人ひとりの生まれつきの個性に応じてその才能を伸ばすことを基本にしながら、知識を詰め込むことではなく、自ら考え学ぶ意識を高めることを重んじました。これらは、すべて徂徠学の思想に基づくものでした。
講堂 
講堂 始業式などの時に生徒はここに集まりました。また、藩主が参勤で留守の年には2日おきに役所として用いられ、藩役人が集まって藩政の打ち合わせや会議が行われました。現在は、教科書として使われていた刷り本や印刷に使った版木などを展示・公開しています。
講堂
荻生徂徠(おぎゅう そらい)。1666〜1728年。江戸時代中期の儒学者。古文辞学を確立。私塾を聞き、太宰春台や服部南郭らの門人を輩出しました。また5代将軍綱吉の側用人の柳沢吉保や8代将軍吉宗の政治的助言者でもありました。江戸幕府の正学とされた朱子学を『憶測にもとづく虚妄の説にすぎない』と朱子学に立脚した古典解釈を批判しました。
荻生徂徠像(部分) 
そして、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学を確立しました。8代将軍・徳川吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されています。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれました。
舎生への御達書 
論語の素読 鶴岡市では現在も小学生らが論語の素読に取り組んでいます。素読は致道館が奨励した学習法の一つで、中国古典の漢文を大きな声を出して読むのが特徴。今年(2017年)も、『少年少女古典素読教室』の開講式が5月20日に行われ、小中学生たちが8月上旬まで『論語抄』の素読を通じて伝統の学風に触れるそうです。
庄内論語の取組み
 南洲翁(西郷隆盛)と庄内 旧庄内藩の藩主や藩士らは、戊辰戦争の戦後処理における南洲翁(西郷隆盛)の温情ある極めて寛大な処置に感激しますが、酒井忠篤公(11代藩主)は、明治3年(1870年)に藩士76名を率いて鹿児島を訪れ、 100日余り滞在し、親しく西郷の教えを受け、寝食を共にしました。
西郷の徳で結ばれた兄弟都市
そして、翌明治4年、菅は上京し、西郷と初めて会見します。菅は西郷より2歳年下、まるで古くからの友人のように互いに喜び合い、その様子は『敬すること兄のごとく、親しむこと弟のごとき』であったといいます。こうして、西郷南洲翁と菅臥牛翁(菅実秀の号が臥牛)、薩摩と庄内の交情が深まっていきました。
扁額『敬天愛人』
扁額『敬天愛人』 致道館が廃館になってから34年後、旧致道館の建物の一部は、朝暘第一尋常小学校の校舎として名残を留めていました。上の写真の扁額は、旧朝暘第一小学校の東体育館に掲額されていたものです。『昭和二年三月 伯爵酒井忠良書』とあります。酒井忠良(さかい ただなが、1888年〜1962年)は、旧庄内藩主酒井家16代当主、庄内藩11代藩主の酒井忠篤の次男で、最後の藩主・酒井忠宝(忠篤の弟)の養子。
御入間 
御入間(おいりのま) 藩主が昇校の際に御入りになったところです。一番奥の御居間(おいま=写真下)は戊辰戦争で降伏した庄内藩が新政府軍参謀・黒田清隆を迎え入れて謝罪したゆかりの部屋です。この部屋で、黒田は南洲翁から指示のあった温情ある寛大な処置をいい渡しました。
 御居間
【参考にしたサイト】
(1)庄内藩校「致道館」
(2)致道館の教育 − 山形県鶴岡市観光連盟
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