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旅行記 ・鰻温泉 〜 南洲翁ゆかりの地(4)− 鹿児島県指宿市  2013.09
 うなぎおんせん
鰻温泉
国道226号から3km入ったところにあります。
鰻池は神秘的雰囲気のカルデラ湖です。
明治時代の初期には、征韓論に敗れ下野した西郷隆盛が一ヶ月ほど逗留して狩猟の日々を過ごしたところでもあます。その折、佐賀の乱に敗れた江藤新平が西郷を訪ねてきて激論を交わしたことが知られています。江藤は薩摩士族の旗揚げを西郷に請いましたが西郷は動きませんでした。西郷が逗留した場所には今は家はありませんが、 記念碑と西郷の小さな像が建っています。また、ここは『男はつらいよ・第34作 寅次郎真実一路』のロケ地となった場所です。その時のマドンナは大原麗子さんでした。
 
鰻(うなぎ)温泉
指宿市の中心街から車で走って10km足らず、国道から3kmほど入った山あいに鰻池という小さなカルデラ湖があります。この湖畔に20〜30軒ほどの民家が軒を寄せ合う集落のなかに、湯治向きの民宿3軒と一軒の木造の共同浴場がある小さなひなびた温泉地が鰻温泉です。江戸時代の1750年頃から利用されている古い温泉地で、湯量豊富で皮膚病に良く効くと言われています。噴気の里といわれ、集落のいたるところで噴気があがっています。この噴気は、スメ(巣目)と呼ばれる釜をしつらえて、日常の煮炊きに利用されています。
den鰻集落は湖畔の北東側に軒を連ねています。
集落の入口
集落に入って目に付く案内板
前方が鰻池。下って右折すると区営鰻温泉があります。
 
スメ(巣目)
集落の入口にある公衆スメ(前方の瓦屋根の家)
指宿市内循環バス停
 
スメ(巣目)
スメとは、噴出する高温の蒸気を利用した天然の『蒸しかまど』のことで、地下に滞留する約100℃の蒸気をパイプで一箇所に集め、石組みなどで作ったかまどのことです。スメは、地域のほとんどの家庭にあり、温泉卵や蒸かし芋、煮込み料理など日々の調理に利用されており、地域住民の生活の一部になっています。また、スメは火山性の噴気孔であり、一つひとつが温泉法で分類される温泉の泉源になります。
 
鰻地区には、公衆用と家庭用のスメがあり、煮炊き用に利用しています。公衆用は許可制で現在17軒の家庭が利用しています。(以上現地の案内板より)
denn半熟卵だと3分で出来上がります
噴気とスメ
家庭ごとにいろいろな形、大きさのスメがあります。
 
 南洲翁逗留の家
遺跡記念碑と西郷像
西郷南洲翁先生遺跡記念碑
「滞在中の西郷は、毎朝7時前後に起床し、朝食後には開聞岳辺りに猟に出かけた。毎晩入浴し、食事して少量の焼酎で晩酌している。朝夕には牛乳や卵などをとった。猟に行かない日には、湖辺りで子どもたちと遊んでいた。鰻池を離れる際、西郷は家の主人に礼として猟犬を1頭与えようとしたが、ありがたいが犬はおそろしいと断られたため、襦袢(シャツ)を与えた」とあります(現地案内板から)。
 
西郷隆盛滞在記 
明治維新の立役者・西郷隆盛は、鰻池と鰻温泉をこよなく愛し、幕末から明治にかけて、幾度も鰻池へ湯治に訪れたと云われています。そのうち明治7年(1874年)に訪れた時の記録とお礼に渡された本人着用の襦袢(シャツ)が残されています。残された記録には、西郷が明治6年(1873年)の政変で政府を離れ、鹿児島で隠棲した時期の話で、明治7年2月13日夕方、西郷隆盛が従者2名を随行して、猟犬13匹をつれ、突然宿をとったことから始まり、滞在中の彼の様子が記されています。
denn大きい目を見開いた西郷像
逗留の家の案内板(今は家はありません)
 西郷南洲翁逗留の家
征韓論に敗れた南洲翁が、鰻温泉を訪れたのは明治7年1月の末、供と猟犬をつれて、この福村市左衛門方に逗留した。毎日狩猟に出かけ、夜は読書し、雨の日には村の子供たちと遊んだという。佐賀の乱に敗れた江藤新平が訪れ、大義に生きる翁と、国を憂い激論したといわれる。福村家には翁が愛用したシャツは家宝としてのこされている。 昭和52年9月 山川町観光協会
区営鰻温泉(共同浴場)
湯治処・まつまえ(手前)と区営鰻温泉
源泉温度は88.8度。無色透明無味無臭。単純硫黄泉ですが、硫黄泉特有の匂いは感じません。お肌ツルツルの感触。立ち寄り入浴時間 6:30〜20:00、入浴料200円(第1月曜日定休)
区営鰻温泉
湖畔に20〜30軒ほどが棟を寄せ合う鰻集落
 レポート ・江藤新平
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