雑感  ・南洲翁遺訓のこと   
− 南洲翁遺訓のこと −
 
南洲翁遺訓

 
南洲翁遺訓(なんしゅうおう いくん)という一冊の本があります。南洲翁とは、明治維新で活躍した薩摩藩(鹿児島)の西郷隆盛のことです。この本は、西郷隆盛の言葉をまとめたもので、明治維新から150年を経た現在でも自費出版され、全国に配布されています。
 
この本を出版し配布しているのは、鹿児島県の人たちではなく、山形県酒田市にある『荘内南洲会』の人たちなのです。このことは驚きでした。
 
鹿児島県に生まれ育ち、鹿児島市内にある銅像や城山の終焉地、熊本県の田原坂なども見て知っていて、西郷隆盛という名は子供の頃から馴染みのある名前でした。でも、恥ずかしながら『南洲翁遺訓』のことを知ったのはつい最近のことなのです。
 
西郷と庄内藩
 
庄内藩(今でいう山形県鶴岡市、酒田市)は、鳥羽・伏見の戦いの契機となった江戸薩摩藩邸焼き討ちを行った主力藩であり、戊辰(ぼしん)戦争でも薩長を含む新政府軍に執拗(しつよう)に抵抗した藩です。
 
そのため、新政府軍に降伏した庄内藩の藩主及び藩士らは、厳重な処罰が下るものと覚悟していました。しかし、新政府軍参謀の薩摩藩士・黒田清隆が下した処置は、温情ある極めて寛大ものでした。実はこれらの処置は、陰で西郷が黒田に指示して行わせていたのです。
 
西郷の考えは、庄内藩士たちを戦の相手ではなく、新しい時代の同胞とする考え方でした。後日そのことを知った旧庄内藩の人々は、西郷の考え方に感激するとともに、人知れず筋道をたてて指導をする人柄に惚れ込んだのです。明治になると、西郷を訪ね、教えを請うようになりました。
 
南洲翁遺訓の発行
 
旧庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)は、旧藩士七十六人を引き連れ、明治3年(1870年)に、鹿児島の西郷を訪ね、西郷に教えを請い、薩摩の人材教育を学びました。明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布の特赦(とくしゃ)により、西南戦争での西郷の賊名が除かれると、旧庄内藩士らは、西郷から学んだ様々な教えを一冊の本に編集して出版しました。それが『南洲翁遺訓』です。
 
旧庄内藩士らは、本を背負い、全国に配り歩き、その伝導者となったと言われています。その気概は、今も庄内の地で引き継がれているのです。
 
小学校の卒業記念製作のこと
 
昭和30年(1955年)代、小学校の卒業記念に、身の丈の2倍以上もある孟宗竹に、先人の有名な言葉などを彫り込んだものを作っていました。私が彫り込んだのは、『人を相手にせず、天を相手にせよ。』という言葉でした。小学生の分際で、よくも「人を相手にせず、云々・・・」などと、その制作品を目にするたびに大いに恐縮したものですが、この言葉は西郷南洲翁の下記の遺訓の中の言葉です。
 
『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。』
 
【現代訳】人を相手にしないで常に天を相手にするように心がけよ。天を相手にして自分の誠を尽くし、決して人を咎(とが)めるようなことをせず、自分の真心の足らないことを反省せよ。
 
上の遺訓とよく対にして語られるものに下記の遺訓があります。
 
『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの なり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は、成し得られぬなり。』
 
敬天愛人
 
敬天愛人(けいてんあいじん)。「天を敬(うやま)い、人を愛する」と読むこの言葉は、、西郷隆盛が好んでよく使った言葉で、西郷の指針であり、信仰的とも言える彼の信条だったと言われています。下記の遺訓があります。
 
『道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬する を目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。』 
 
【現代訳】「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、 自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。
   
【備考】下記の旅行記があります。
旅行記 ・山居倉庫と南洲神社 − 山形県酒田市
 
参考】下記のサイトを参考にしました。
『荘内南洲会』山形県酒田市
西郷南洲遺訓(岩波文庫)
◆「敬天愛人」について

  2003.08.20 
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