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山ヶ野金山(3)〜永野金山跡 − 鹿児島県
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山ヶ野金山は、鹿児島県さつま町永野地区の『永野金山』と、霧島市横川町山ヶ野地区の『山ヶ野金山』を総称してそう呼ばれます。明暦2年(1656年)の金山再開以来、中心が永野から山ヶ野に移って採鉱が続けられましたが、明治40年(1907年)に現霧島市隼人町の水天渕に金山専用の水力発電所が建設され、当時東洋一と言われた近代的大精錬所が永野に設置されると、経営の中心は、再び永野へ移りました。大正15年(1926年)以降、順調に運転を続け、最盛期には従業員が1000人近い県下有数の大企業になり、太平洋戦争勃発により昭和18年(1943年)に整備令が出されるまで操業が続けられました。坑道入口跡など、わずかに残る史跡と金山集落の現況などをアップロードしました。   (旅した日 2007年04月)


永野金山坑道
2km以上離れた永野と山ヶ野が坑道でつながれ、坑道や竪坑、斜坑が「クモ」の巣のように張り巡らされ、鉱山坑道の規模の大きさが伺い知れます。

胡麻目(ごまめ)坑入口跡
永野金山が盛んな頃は、この坑道は遠く横川町山ケ野の地底までも通じ、六番坑道と呼ばれていた。途中には坑内事務所、コンプレッサー機械室、火薬庫、五百尺(165m)の竪坑(エレベーター)や、斜坑巻上げ場、上坑道からの鉱石落し口などがあって、主に運搬や工夫の出入り口であった。
この坑内には、金鉱脈を追って掘られた坑道が、「クモ」の巣のようにつながっていた。金山は300年余り続いた。以上、薩摩町(現さつま町)教育委員会の案内板より。写真下は、当時の胡麻目坑入口の様子(『山ヶ野ふれあい館』で撮影のもの)。


名残り

        鉱山所の名残り

胡麻目坑入口跡の前は現在、草の生えた広場の状態になっていて、建物の土台跡鉱夫専用風呂場跡にわずかながら当時の名残りを感じることができます。

金山発見者内山与右衛門(宮之城領主島津久通の配下)の墓石は、近年に現場所に移設されたもの。寛永18年(1641年)の銘があります。


竪坑跡やトロッコ道跡など、永野金山の史跡は他にもあるそうですが、まだ整備されていません。今後の発掘と整備に期待したいです。


水天渕(すいてんぶち)発電所
島津家・水天渕(すいてんぶち)発電所記念碑(鹿児島市・仙巌園)
水天渕発電所は明治40年(1907年)に島津家が経営していた山ヶ野金山(横川町・さつま町)に電力を供給するため姶良郡(現霧島市)隼人町に建てられた発電所です。ヨーロッパ風の石造りの建物は当時としては珍しく、昭和58年(1983年)まで使用(九州電力株式会社)されていました。記念碑(写真上)は、水天渕発電所が撤去される際に、この部分だけ九州電力株式会社より譲り受け、仙巌園(鹿児島市)に設置されたものです。当時の水天渕発電所(写真下)は、『山ヶ野ふれあい館』で撮影のもの。



金山集落の風景
永野金山集落は、永野金山の開山と発展に伴って移入した人たちによって形成され賑わいました。二軒の遊廓もあったそうです。集落(写真上)の左手上方には、『下茶屋』『上茶屋』と呼ばれる区域があって料亭が軒を連ねていたそうです。当時、集落の入口に『金山倶楽部』というのがあって演劇などが行われていたそうです。その門柱が民家の庭先に残されています(写真下)。眼鏡橋(写真下)にも盛時が偲ばれます。
永野鉱業所跡

             
鉱業所跡

明治42年(1909年)当時、当時東洋一と言われた大精錬所と鉱山館(金山の本部事務所)があった鉱業所跡は現在、その面影を石垣に残すのみです。

上の写真の右端に見える県道の右下に変電所や分析所、館長住宅などがあったそうです。県道を進むと胡麻目坑入口跡、そして霧島市横川町山ヶ野に至ります。


鉱山館には、
西郷隆盛翁の長子で、台湾宜乱蘭庁長、京都市長を経た西郷菊次郎氏が明治42年(1909年)から大正8年(1919年)まで第8代館長として就任しました。鉱業館夜学校を建て金山幹部養成にあたり、その後幾多の人材を輩出したそうです。

さつま町では、文武両道の人材育成に当った氏の功績をたたえ、毎年
『西郷菊次郎顕彰剣道大会』を開催しています。



在りし日の記録
上の写真は、昭和4年(1929年)に購入され永野金山関連の物資を運ぶのに活躍した米国フォード社製のトラックです。わが国の自動車の歴史を調べてみると、東京石川島造船所が英国ウーズレー社との提携を解消し、独自に純国産車の生産に乗り出したのが昭和2年で、昭和8年になって商工省標準形式自動車がつくられています。従って、昭和4年といえば、馬車に代わってトラックが使用され始めたばかりの、自動車がとても珍しい頃でした。当然、運転免許を持った人も少なく、遠く天草(熊本県)より運転手を雇っていたそうです。運転席のドアのところに立っている人がその運転手。運転席に写っている右から2番目の顔の人が、さつま町永野にご健在の水口さん(82才)です。背面の石垣は、鉱業所の石垣で、写真は当時永野金山に開業していた写真屋さんの撮影によるものだそうです。
水口さんの家は、おじいさんの代から永野金山(島津鉱業)の物資を取り扱う運送業に携わっていました。鉱業所の下に住宅と馬小屋があって、昭和12年(1937年)に国鉄(現JR)宮之城線のさつま永野駅が開通するまで、物資は肥薩線の大隅横川駅(明治36年開業)まで、毎日馬車で運んでいたそうです。昭和4年以降、トラックが使用されるようになりました。上の写真は昭和7年(1937)年に撮影のもので、ニ台目のフォードが購入されています。中央の左に学生服で写っているのが水口さん。トラック1台の値段がニ千円で、月百円の月賦払いだったそうです。写真は二枚とも鹿児島県さつま町の有馬さんの提供によります


さつま永野駅跡
昭和12年に国鉄宮之城線さつま永野駅が開業すると、それまで肥薩線大隅横川駅で積み下ろしされていた物資がこの駅で取り扱われるようになりました。上の写真に写っている線路の延長線上に見える山付近に永野金山や山ヶ野金山がありました。昭和28年(1953年)の金山閉山後は、木材や木炭、甘藷や米などの積み出し駅として活躍しましたが、宮之城線は、昭和62年(1987年)に廃線となりました。なお、永野駅はスイッチバックの駅として親しまれた駅でした。モニュメントとして残された信号やレール、貨車、ホームなどが当時の面影を伝えています。


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