レポート  ・山ヶ野金山   
(1) その歴史
著者の住むさつま町は、鹿児島県北部の内陸地域に位置する人口2万5千人余の町です。そのさつま町と隣の霧島市横川町にまたがる山間一帯は、江戸時代、佐渡と並んで日本を代表する金山の一つだった山ヶ野(やまがの)金山のあったところです。
 
山ヶ野金山は、寛永17年(1640年)、宮之城第4代領主・島津久通(ひさみち)が、永野宍焼口(ししやきぐち)の川辺で金鉱石を発見、つづいて夢想谷の上方に金鉱が流出しているところを発見したことに始まりました。金鉱の流出は、『あたかも、赤牛の伏せるがごとく』だったと伝承されています。
 
翌々年、幕府の許可が下り、薩摩藩は、周囲3里(12km)に柵を巡らして採掘を開始しました。とじ金(金粒の固まったもの)のついた鉱石がたくさんあって、それを露天掘りしました。集まった鉱夫の数は2万人にも上ったといわれます。
 
しかし、幕府は1年間で採掘中止の命令を出します。全国が飢饉で苦しんでいるときに、金山だけ浮かれさす訳にはいかないというのが理由でしたが、あまりにもたくさん金が産出するので、幕府の妬(ねた)みを買ったものでした。
 
13年後の明暦2年(1656年)にやっと再開されると、永野より山ヶ野へ中心が移り、金山奉行に島津久通が任命されます。役所や運上(税金)、お成敗(法令)等の体制が整い、鉱山所15箇所、山ヶ野金山町33町、永野金山町10町が定められました。このときの人口は約1万2千人だったと言れます。田町に九州三大遊郭の一つが出来たのもその頃でした。
 
明暦3年(1657年)から28年間の産金額は18万7千両で、藩借金返済、藩御用、藩農業土木等に使われるなど、藩の重要な産業でした。しかし、表層部の金はすでに取り尽され、産金量が減ってきます。
 
そこで、坑内採掘の技術が必要となり、金採掘の先進地であった大分の日出(ひじ)藩より技術者を招きますが、元禄元年(1688年)以降とみに産金量は減じて行きます。それでも、山ヶ野金山は、幕末まで一年も休山することなく稼業が続けられ、第28代藩主島津斉彬(なりあきら)も視察しています。
 
明治10年(1877年)、島津家では文明の学術により鉱山の振興を図ろうと、フランス人の鉱山技師ポール・オジェを招き、谷頭に精錬所を建設、蒸気をもって杵(きね)を運転し、川下に青化精錬所を設けて操業を始めましたが、いろいろと困難な問題が生じ思わしくいかず、ついにポール・オジェを解雇するに至りました。米一石、3円36銭の時、ポール・オジェの月給は 700円だったそうです。
 
結局、従来の方法で島津家の直轄業と自稼請負業を併用して行う方が一番良いということになりました。明治33年(1900年)、国会議員だった蒲生仙氏が鉱業館長に就任すると、自稼法を大いに奨励し、また直轄においても各坑に良鉱が続出し、大いに賑わいました。自稼請負者も水車を使い始め、昼夜分かたず回転の音がこだまし、金山一帯が大工場の感であったと言われ、最盛期、水車数は 302台だったと記録されています。
 
明治37年(1904年)、島津家において再び改革と拡張の議論が起き、五代龍作(五代友厚の養子、工学博士)が7代鉱山館長に就任すると、明治40年(1907年)に現在の霧島市隼人町の水天淵に金山専用の水力発電所が建設され、施設の電化が進みました。当時東洋一と言われる近代的大精錬所が永野三番滝に設置され、経営の中心は、山ヶ野から永野へ移ります。
 
西郷隆盛の長子で、台湾宜乱蘭庁長、京都市長を経た西郷菊次郎が明治42年(1909年)から大正8年(1919年)まで8代鉱山館長として就任しました。鉱業館夜学校を建て金山幹部養成にあたり、その後幾多の人材を輩出したそうです。
 
大正11年(1922年)、島津家の個人経営から会社経営に切り替えられ、薩摩興業株式会社となりました。この頃から自稼請負業は減り、大正14年(1925年)に廃止されました。大正15年(1926年)には大火になり不運にあいましたが再建され、永野精錬所は順調に運転を続け、産金量も上昇し、その最盛期には従業員1000人近い県下有数の大企業になりました。
 
昭和に入り、産出量は減ってきました。昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まると昭和18年(1943年)には、金は戦争遂行には不要であるということで、整備令により操業を停止、従業員はすべて政府の指示を受け、京都大江山のニッケル鉱山、その他重要産業に転出して行きました。
 
戦後は、昭和25年、北九州の麻生鉱業と提携して再開に乗り出しましたが、業績振るわず3年後の昭和32年(1957年)、山ヶ野金山は 302年(実働 289年)の歴史を閉じました。
 
(2) 自稼採金請負業
わが国では16世紀から17世紀初めにかけて、産金が盛んに行われるようになり、佐渡金山の開発が江戸幕府によって進められました。佐渡金山は、江戸期には合計40トンの金を産出しましたが、17世紀半ば頃には薩摩藩の山ヶ野(やまがの)金山が佐渡金山と並んで全国屈指の産金量を記録しています。
 
山ヶ野金山史跡めぐりのパンフレットには、現在、わが国の産金量の一位は、菱刈金山(鹿児島県)の約 121トンで、二位が佐渡金山の82.9トン、三位が山ヶ野金山の約80トンとあります(菱刈金山は、2005年3月末に 144.2トンを達成しています)。
 
鹿児島県さつま町永野と霧島市横川町山ヶ野の山間一帯にまたがる山ヶ野金山跡の、坑口跡や、千人ほどの鉱夫が掘っ建て小屋に住んで露天掘りで鉱石を掘ったり、鉱石を水洗いしたという千軒跡、掘り出した鉱石を叩き砕いて小さくし、それをさらに挽いて砂状にしたという石臼(いしうす)などの史跡を訪ね回ると、よく時代劇で観る佐渡金山などの様子とは違った金山のイメージが浮かび上がってきます。
 
それは、山ヶ野金山が、佐渡金山のように直接幕府や藩が人夫を使って行う直山でなく、山師等に行わせる請山であり、しかも自稼(じか)採金請負業による採掘を主体とした金山であったことによるものと思われます。
 
佐渡金山は慶長6年(1601年)に開発され、徳川家康(1543〜1616年)は幕府の直山としました。それから40年後の寛永18年(1641年)に、薩摩藩は山ヶ野金山から出金した約千両を幕府に献上し、金山を幕府の直山とせられんことを願い出ました。
 
しかし、家康が亡くなってすでに25年、これは当時の慣例で、結局は拝領を期待してのことでした。すなわち、山ヶ野金山の稼業は、薩摩藩に任せられることになりました。なお、廃藩置県では鉱山はすべて国に没収されましたが、薩摩の金山だけはその対象にされませんでした。これは維新政府における藩の地位がそうさせたといわれています。
 
金山万覚という古文書によれば、山ヶ野金山発見当初は、『荷分山』だったといわれます。『持下りし荷、一荷に付銭二十文御掛けなされ御取りなされ候、一荷と申すは八十二貫入り』とあるように、八十二貫(約 307kg)の鉱石を一荷とし、一荷ごとに代金として二十文をもらうシステムでした。露天掘りだったから、こういうことが出来たものと思われます。
 
寛永19年(1642年)に、幕府から採掘の許可が下りると薩摩藩は、周囲3里(12km)に柵を巡らして採掘を開始しました。とじ金(金粒の固まったもの)のついた鉱石がたくさんあって、それを露天掘りしました。集まった鉱夫の数は2万人にも上ったといわれます。
 
山ヶ野金山のとじ金はつとに有名で、『苔(こけ)または、蔓(つる)の地面を匍匐(ほふく=腹ばいになって進むこと)するに似て』、あるいは『藤花の垂るるがごとく』とも表現され、長さ約 3.5mのものや、粘土脈から手のひらのようなとじ金を産したこともあったといわれます。
 
とじ金の露天掘りによって、山ヶ野金山は、幕府の許可が下りてわずか1年でその後200年間の産金量に匹敵する金を出金したといわれます。幕府は、これを妬(ねた)んで、というよりむしろ、恐れおののいて、山ヶ野金山の採掘中止命令を出します。
 
13年後の明暦2年(1656年)に採掘が再開されると、精錬後(吹金)代銀で公納するようになりました。すなわち、金を作って役所に納め、その金の品位によって代金をもらうシステムになったのです。
 
自稼請負業は、一人の請負山師の下に、堀子、大工、山留人夫など、 100人位が付いて、それぞれの役割に別れて作業をするというやり方でした。過酷な作業に違いなかったでしょうが、幕府や藩の役人に始終見張られ鞭打たれる奴隷的使役ではなかったようです。自稼請負制の方が使う側もよく、働く者も自由に励みがあって生産も上がったと思われます。
 
自稼請負業が盛大を極めたのは、明治33年(1900年)、国会議員だった蒲生仙氏が鉱業館長に就任し、自稼法を大いに奨励した後のことでした。自稼堀の人たちは、掘り出した鉱石を叩き砕いて小さくし、それをさらに石臼(いしうす)で挽(ひ)いて砂状にし、揺り鉢にかけ金を選鉱しました。
 
明治20年頃になると、水車の動力を利用して臼と杵(きね)で鉱石を砕く方法が使われるようになります。自稼請負者も水車を使い始め、昼夜分かたず回転の音がこだまし、金山一帯が大工場の感であったと言われ、最盛期、山ヶ野の水車数は 302台だったと記録されています。
 
島津興業直轄と自稼請負の割合は、明治33年で自稼請負75.2%だったのが、明治38年で61.6%、明治40年で57.3%となって、次第にその割合は逆転していきます。自稼請負制による採掘はその後、細々ながら大正14年(1925年)まで続けられました。
 
(3) 江戸巡見使の話し
山ヶ野金山について書いた石川哲氏の著書『山ヶ野金山のすべて』(高城書房出版、1990年4月初版)を読むと、興味あるたくさんの史話を知ることができます。例えば、そのひとつに、江戸巡見使(じゅんけんし)の話しがあります。
 
徳川幕府は、将軍が代替わりする毎に、巡見使という役人を全国各地に派遣し政情・民情を視察させました。その巡回は、供の者を加えると総勢百人に及んだといわれます。今なら、さしずめ会計検査員の巡回というところでしょうが、藩にとってはそれとは比べものにならないほど怖い嫌な存在だったに違いありません。
 
この招かざる客が山ヶ野金山にも三回訪れました。天保9年(1838年)の巡見使に関する古文書に、『金山にて御答可申上他太概』という一書が残されているそうです。予め質問を想定して『巡見使が来たらこう答えよ』という、島津藩庁が出した虎の巻です。内容は、昭和42年(1967年)12月の南日本新聞によれば、つぎのようだとあります。
 
・間違えないよう筋道をたてて答え、調子に乗って尋ねられないことまでしゃべるな。
 
・知らないことは、いい加減に答えないで知らないと言え。
 
・琉球については、『私たちは知らない、藩の役人に聞いてくれ』と答えよ。
 
・一向宗禁圧も理由は知らないことにせよ。キリシタンはいないと答えよ。(当時、島津藩は琉球と密貿易を行い、一向宗を禁止していました。)
 
・職人の運上金(売上金の何割かを上納するお金)はないと答えよ。また、船の税金は、蔵米一石に付き大阪までなら銀2分5厘、江戸までなら3分5厘、一般の漁船は帆1反に付き銀八分である。
 
・下男下女は5年、7年、10年契約で、それ以上は藩が許可しない。
 
・藩の取り締まりが厳しく、バクチ打ちや盗人、遊女などは、一人もいない。
 
・葬式は土葬で、親孝行には褒美を取らす。赤ちゃんの間引きは厳禁と答えよ。
 
という具合で、中にはもしこう尋ねられたらこう答えよと、複数の回答まで用意されていたと言うことですから、昔も今も変わらないと言うことでしょうか。
 
寛永17年(1640年)、山ヶ野金山が発見されると、藩は幕府の許可を得て採掘に取りかかりましたが、当時あまりにもたくさん産出するので、幕府の妬(ねた)みを買い、採掘が13年間禁止された経緯がありました。藩も巡見使に対しては特段に気を使っていたのでしょう。
 
・とじ金(=金粒の固まったもの)を見たいと言われたら、そのようなもの、お目にかけるものはないと、断れ。
 
・白仁田(当時、発掘の最前線だったところの地名)は町か、と質問されたら、鉱山の中ではあるが、勝手に野菜や、魚、塩を売っているところだと申し上げよ。
 
と言うようなことで、果たして巡見使が満足したものかどうか、おそらく不満ながらも渋々と引き上げていったであろう、とあります。また、巡見使が来たときは、わざと辺鄙(へんぴ)なところを連れ歩き、現場もあまり良いところは見せなかったそうです。
 
【旅行記】
下記に旅行記があります。
山ヶ野金山(1) − 鹿児島県
山ヶ野金山(2)〜夢想谷 − 鹿児島県
山ヶ野金山(3)〜永野金山跡 − 鹿児島県
 
【参考文献】
(1)石川哲氏の著書『山ヶ野金山のすべて』(高城書房出版、1990年4月初版)
(2)寺本清・田山修三編著『近代の歴史遺産を活かした小学校社会科授業』
  (明治図書、2006年12月初版)
(3)金(鉱物) - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト
(4)山ヶ野、串木野、大口金山−1975年頃までの金鉱探し
(5)山ヶ野金山史跡めぐりのパンフレット
  

2007.04.18 
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