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♪夢の向こう側 |
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集成館の史跡と仙巌園 − 鹿児島市 |
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幼年時から曾祖父・島津重豪(しげひで)に開明的な影響を受け、優れた偉材として藩の内外から藩主となることを期待されていた島津斉彬(なりあきら)でしたが、重豪時代の放漫財政、近思録崩れ(きんしろくくずれ)、調所広郷の財政再建、そしてお由羅(おゆら)騒動などを経て、第11代薩摩藩主に就任したのは、斉彬43歳のときでした。そして、その7年後、在任の最中50歳で急死します。しかし、わずか7年の間に、藩内をまとめ、富国強兵・殖産興業を率先して推進した政策は、明治維新の原動力となるものでした。斉彬の富国強兵・殖産興業政策である『集成館事業』の史跡と旧島津家別邸であった『仙巌園』を鹿児島市吉野町磯に訪ねました。 (旅した日 2008年01月) |
尚古集成館(重要文化財) |
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反射炉跡(仙巌園) |
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島津藩百五十斤鉄製砲復元 |
斉彬が集成館事業の鋳砲事業で目指していた『鉄製150斤(ポンド)砲』の復元模型が製作(平成18年6月2日竣工)され、仙巌園の反射炉跡前に据え付けられています。砲身全長4,560mm、砲身全幅740mm、砲身質量8.3トン、想定砲弾150ポンド、最大射程距離約3,000m(有効射程距離約1,000m)。 |
鹿児島紡績所と異人館 |
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レトロな洋館 |
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造船所跡 |
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国旗『日の丸』の起こり 昇平丸建造の頃、日本にはまだ国旗がありませんでした。そこで、斉彬は1853年、日本船と外国船を区別するために『日の丸』を掲げて航行しようと提案しました。翌年1854年に、幕府は『日の丸』を日本船の総船印と定めました。これが、わが国の国旗の起こりです。 |
仙巌園(国指定・名勝) |
正門 明治28年(1895年)、島津忠義が建てさせた門。磯の裏山の楠を使用し、かえる股に島津家の家紋の丸十と五七の桐が彫りこまれています。NHK大河ドラマ『篤姫』では、薩摩藩邸江戸屋敷に見立てられてロケが行なわれました。 |
錫門 庭地拡張以前(1848年)の正門だった門で、屋根を錫で葺(ふ)いていたことから錫門と呼ばれてきました。 |
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このほか、仙巌園関連のページとして、曲水の宴、島津牡丹展、磯の朝顔展、ルリカケス、薩摩の土人形 のページがありますので、ご覧下さい。 |
御殿 島津忠義の時代には本邸として使用されました。現在は、明治17年(1884年)に改築された部屋を中心に、当時の約3分の1が残されています。 |
御殿から眺める桜島 |
両棒餅(ぢゃんぼもち) |
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【備考】本ページの説明文は、現地に掲示されている説明板の説明文を引用しました。 |
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