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集成館の史跡と仙巌園 − 鹿児島市
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幼年時から曾祖父・島津重豪(しげひで)に開明的な影響を受け、優れた偉材として藩の内外から藩主となることを期待されていた島津斉彬(なりあきら)でしたが、重豪時代の放漫財政、近思録崩れ(きんしろくくずれ)、調所広郷の財政再建、そしてお由羅(おゆら)騒動などを経て、第11代薩摩藩主に就任したのは、斉彬43歳のときでした。そして、その7年後、在任の最中50歳で急死します。しかし、わずか7年の間に、藩内をまとめ、富国強兵・殖産興業を率先して推進した政策は、明治維新の原動力となるものでした。斉彬の富国強兵・殖産興業政策である『集成館事業』の史跡と旧島津家別邸であった『仙巌園』を鹿児島市吉野町磯に訪ねました。                      (旅した日 2008年01月)


尚古集成館(重要文化財)
現在は島津家歴史資料館となっている『尚古集成館本館』
島津斉彬と集成館事業
鹿児島市吉野町磯の仙巌園(せんがんえん)入口から尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)・駐車場にかけての一帯は、幕末、第11代薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)が築いた工場群『集成館』の跡地で、国の史跡文化財に指定されています。

斉彬は、植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に強い危機感を抱いていました。日本が植民地にされないためには、
日本を西欧諸国のような強く豊かな国に生まれ変わらせなければならないと考え、嘉永4年(1851年)薩摩藩主に就任すると、『集成館事業』という富国強兵・殖産興業政策を推進しました。『集成館』はその中核となった工場群の総称で、鉄製砲を鋳造する反射炉、反射炉に鉄を供給する熔鉱炉、蒸気機関の研究所、ガラス工場などがあり、最盛期には1,200名もの人が働いていたといわれます。

集成館跡地一帯には、機械工場(現尚古集成館本館・重要文化財)や反射炉跡、工場の動力用水路跡が現存し、さらに地中には多くの遺構・遺物が眠っているといわれます。
尚古集成館
安政5年(1858年)斉彬が急死すると、集成館は大幅に縮小され、文久3年(1863年)の薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃を受け焼失しました。しかし、斉彬の弟久光と、久光の長男で家督を継いだ忠義(ただよし)の手で集成館が復興されました。尚古集成館本館はこのとき建てられた機械工場です。集成館事業により、薩摩藩は日本最高水準の技術力・工業力を持つにいたり、明治維新ではその威力が発揮されました。

明治4年(1871年)、集成館は官有となりましたが、明治10年、私学校徒がここを襲撃して西南戦争が勃発、政府軍がすぐに奪還、再奪還を図る西郷軍と攻防戦を繰り広げたため、多くの工場が焼失し荒廃しました。戦後、民間に払い下げられましたが振るわず、大正4年(1915年)廃止されました。大正8年、機械工場は改装され、大正12年
島津家の歴史資料館『尚古集成館』がオープンしました。

尚古集成館本館では、当時鹿児島紡績所で使用されていた1866年のイギリス製『梳綿(そめん)機』・『磨針機』やオランダ製の『形削盤』、鉄製砲、薩摩切子などを、別館では、電信線、金属活字、板ガラス・半球ガラスなどを見ることができました。


反射炉跡(仙巌園)
反射炉床の下部構造(写真上)
反射炉とその構造
反射炉は鉄製の大砲を鋳造するために築かれたもので、火床(ロストル)で燃料(石炭または木炭)を燃やし、その熱を壁に反射させて炉床の銑鉄を溶かす施設です。

現在、仙巌園内に反射炉の基礎部分であると考えられる遺構が残されています。基礎部分は、数万個の耐火レンガを使った炉の重量に耐えるよう石組で頑丈に造られていることが伺えます。
炉床の下部構造(写真上)で、規則的に並んだすのこ状の石の配列は通気用の炉下空間(空気層)で、炉内に湿気がたまることを防ぎ、炉の温度を適正に上昇させるために設けられていました。傾斜させた石組(写真上)は灰穴の灰落としで、この上に火床(ロストル)があり燃料(石炭または木炭)を燃やしました。また、ここから風を入れ、風は炉内を通って炎を導き、煙突に抜けていきました。
反射炉の建造と集成館の設置
アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたという情報は、島津斉彬に大きな衝撃を与えました。嘉永4年(1851年)、薩摩藩主となった斉彬は、日本が西欧諸国の植民地にされるのではないかという危機感を抱き、海洋に多くの領地を有する薩摩藩こそ、『大砲と船』に象徴される軍備の近代化と産業育成に力を注ぐべきだと考えました。反射炉は鉄製の大砲を鋳造するために築かれたもので、嘉永5年(1852年)年に着工し、安政3年(1856年)ようやく鉄製砲の鋳造に成功しました。また反射炉を中心に溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備され、これらの工場群は『集成館』と命名されました。生麦事件に端を発した文久3年(1863年)の薩英戦争では、イギリス艦隊7隻を相手に、ここで造られた大砲が大活躍しましたが、その後解体され、現在は基礎部分だけが残されています。

島津斉彬は、オランダ陸軍少将ヒュゲニンが著した『ルイク王立鋳砲所における鋳造法』を参考に、嘉永5年(1852年)反射炉(1号炉)の建設に着手しました。この1号炉は、炉が傾き、耐火レンガが崩れ落ちるなど失敗したため、その海手に2号炉を建設させました。2号炉は安政4年(1857年)完成し、鉄製砲の鋳造に成功しました。写真の石垣は2号炉のもので、1号機の失敗を教訓に頑丈に作られています。石垣に開けられた穴は湿気を取り除くためのものです。石垣は1.5mほどが埋没しており、本来の高さは4mを越え、その上に高さ15〜20mほどの炉がそびえていました。

反射炉の構造図(写真左)と反射炉想像図(写真下)。いずれも現地の説明図を撮影したもの。


島津藩百五十斤鉄製砲復元
斉彬が集成館事業の鋳砲事業で目指していた『鉄製150斤(ポンド)砲』の復元模型が製作(平成18年6月2日竣工)され、仙巌園の反射炉跡前に据え付けられています。砲身全長4,560mm、砲身全幅740mm、砲身質量8.3トン、想定砲弾150ポンド、最大射程距離約3,000m(有効射程距離約1,000m)。


鹿児島紡績所と異人館
日本の紡績業の誕生地
近代的な紡績工場を建設することも、第11代藩主斉彬、第12代忠義の二代にわたる悲願でした。慶応元年(1865年)藩の使節並びに留学生19名をイギリスに派遣する際、忠義は新納刑部、五代友厚らに命じて、紡績機械の購入と技師を招く交渉にあたらせました。そして、慶応2年(1866年)11月、司長のイー・ホームが到着、工場建設に着手。翌年には技師7名がそろい、鉄柱で支えられた石造りの平屋建ての洋式工場で操業を始めました。精紡機、開綿機、打綿機、梳綿(そめん)機など150台もの機械が並び、日本最初の近代的名紡績工場の誕生です。藩は、松岡政人を総裁にして経営にあたりましたが、明治維新後は商社に改組され明治30年まで続き、島津忠義の死去とともに閉鎖されました。
異人館(国指定・登録文化財)
慶応3年(1867年)、イギリス人技師7人の宿舎として、吉野町磯の現在の場所に建てられたのが異人館でした。当時のものは、2階ベランダに窓がなく、屋根に煙突があり室内の暖炉に通じていたなど、現在の異人館とは少し違っていたそうです。また、当時は白亜の建物だったといわれます。
明治15年(1882年)、鶴丸城本丸跡(現在の黎明館付近)に移設され、鹿児島学校さらには中学造士館(のちの七高造士館)の教官室として使用されました。煙突ははずされ、2階ベランダに窓が取り付けられるなどの改修が行なわれています。昭和11年(1936年)に、現在の場所に戻されました。現在の異人館の外観は、造士館教官室当時が再現されています。


レトロな洋館
集成館事業跡地観光スポット磯地区にある文化財建築物・磯工芸館(写真上および左)
磯工芸館
(国指定・登録文化財)
薩摩藩の家紋が付いた磯工芸館は、明治42年(1909年)に建てられた旧島津家吉野植林所の建物が昭和61年に移築されてできたもの。薩摩切子を中心に薩摩焼や錫器などの伝統工芸品を見学したり買ったりできます。また、併設の薩摩ガラス工芸では、薩摩切子の製造を見学できます。
磯くわはら館
(国指定・登録文化財)
伝統を感じさせるレトロな洋館は、築100年以上の由緒ある建物で、芹ヶ野金山(鹿児島県いちき串木野市)の島津家金山鉱業事務所として明治37年(1904年)に建設されたものを昭和61年(1986年)に磯の現在地に移築したもの。現在は、元ホテルシェフがプロデュースするフレンチ基本の西洋料理店となっています。
レトロな洋館・磯くわはら館(写真右)


造船所跡
日本最初の軍艦誕生
『南北100m、幅20m、深さ3m掘り下げて東側から海水を入れる』という構造をもった造船所がこの場所にありました。イギリスやフランスの艦船が、毎日のように琉球にあわられ通商を要求するようになった中で、島津斉彬は、同じ島国のイギリスにならい、艦舶を備え、海軍をつくり、薩摩を日本一の強い藩にしようと考えていました。嘉永4年(1851年)、斉彬は磯に造船所を建設し、ここで安政元年(1854年)3本マストの洋式帆船『伊呂波丸(いろはまる)』が完成しました。

また、斉彬は、漂流してアメリカに11年滞在したジョン万次郎が開国で帰国したの招き、アメリカで習得してきた技術を藩の軍賦役や船大工に教えさせ、
国産洋式船第一号『昇平丸』が安政元年(1854年)が完成しました。昇平丸は3本マストに日の丸をひるがえし、江戸へ回航、将軍家定をはじめ諸侯、幕閣を驚かせました。幕府の求めに応じて献上されたこの昇平丸(昌平丸)に乗り組んだのが勝海舟でした。3年後に斉彬は死去、遺志を継いだ忠義は外国船を大量に購入し、薩摩は洋式船の数で日本一を誇りました。
造船所碑(写真右)と昇平丸絵図(写真上)。昇平丸絵図は造船所碑より撮影
国旗『日の丸』の起こり 昇平丸建造の頃、日本にはまだ国旗がありませんでした。そこで、斉彬は1853年、日本船と外国船を区別するために『日の丸』を掲げて航行しようと提案しました。翌年1854年に、幕府は『日の丸』を日本船の総船印と定めました。これが、わが国の国旗の起こりです。


仙巌園(国指定・名勝)
正門 明治28年(1895年)、島津忠義が建てさせた門。磯の裏山の楠を使用し、かえる股に島津家の家紋の丸十と五七の桐が彫りこまれています。NHK大河ドラマ『篤姫』では、薩摩藩邸江戸屋敷に見立てられてロケが行なわれました。
錫門 庭地拡張以前(1848年)の正門だった門で、屋根を錫で葺(ふ)いていたことから錫門と呼ばれてきました。
仙巌園
仙巌園(せんがんえん)は、鹿児島県鹿児島市吉野町磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園。別名を磯庭園。敷地面積は約5ha。

万治元年(1658年)に、第19代島津家当主であった島津光久によって造園され、その後も歴代当主による改築が重ねられてきた。借景技法を用い、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた素晴らしい景色と広大な庭園が特徴で、昭和33年(1958年)に国指定名勝。
ガス灯を点した石燈籠
右の写真の右端に見える石燈籠は、 鶴が羽を伸ばしたように見えることから『鶴灯籠』と呼ばれているもので、斉彬の時代に、日本で初めてガス灯を点した灯籠の一つです。斉彬の急死で、城下にガス灯を普及するという夢は果たせず終わってしまいました。もし、斉彬が長生きしていたら、横浜・東京より早く鹿児島の街にガス灯がともったことでしょう。
水天渕発電所記念碑
水天渕(すいてんぶち)発電所は明治40年(1907年)に島津家が経営していた山ヶ野金山(横川町・さつま町)に電力を供給するため姶良郡(現霧島市)隼人町に建てられた発電所です。ヨーロッパ風の石造りの建物は当時としては珍しく、昭和58年(1983年)まで使用(九州電力株式会社)されていました。記念碑(写真上)は、水天渕発電所が撤去される際に、この部分だけ九州電力株式会社より譲り受け、仙巌園に設置されたものです。
このほか、仙巌園関連のページとして、曲水の宴島津牡丹展磯の朝顔展ルリカケス薩摩の土人形 のページがありますので、ご覧下さい。
御殿 島津忠義の時代には本邸として使用されました。現在は、明治17年(1884年)に改築された部屋を中心に、当時の約3分の1が残されています。
御殿から眺める桜島

両棒餅(ぢゃんぼもち)
小さな餅に二本の竹串を差し、きつね色に焼いた『たれ』をつけたのが『ぢゃんぼ餅』です。この名のご語源は『両棒』で、両は中国語で『りゃん』、鹿児島(薩摩)では『ぢゃん』となまって2つを意味しています。昔、武士が大小を差しているのを『両棒差し』ともいっていたことから、餅に二本の竹串を差した格好が武士の『両棒差し』に似ているので『ぢゃんぼ』と呼ばれます。
餅の焦げの香ばしさと、しょうゆまたはみそ、砂糖、その他の調味料を入れた独特の『たれ』とがかもしだす昔の素朴な風味をそのままに伝えています。NHK大河ドラマ『篤姫』の第一回で、子供の頃の篤姫も頂いていました。
【備考】本ページの説明文は、現地に掲示されている説明板の説明文を引用しました。

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