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小松帯刀ゆかりの地〜篤姫の周辺− 鹿児島県
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2008年NHK大河ドラマ『篤姫』で、瑛太さん演じる篤姫の幼なじみの肝属尚五郎は、27歳の若さで薩摩藩家老となり、下級武士に過ぎなかった西郷や大久保らを近代日本史に残る英傑へとその才能を引き出し支援した、のちの小松帯刀(たてわき)です。喜入領主・肝属兼善の三男として鹿児島に生まれ、主島津斉彬の小姓となり、22歳のとき吉利領主・小松清猷の養子として家督を継ぎ小松帯刀と改名します。一藩の財政・商工業・軍事・教育などをその若い双肩に担い、島津久光の懐刀として活躍。交流のあった坂本龍馬らとともに日本の明治維新を支える重要な人物になってゆきますが、明治3年(1870年)に36歳の若さで病死。幻の宰相・小松帯刀ゆかりの地を訪ねました。   (旅した日 2008年01月、05月)


小松帯刀(こまつたてわき)
年譜
1835(天保6)年
 
1853(嘉永6)年
1855(安政2)年
1856(安政3)年
 
1862(文久2)年
 
1863(文久3)年
1865(慶応元)年
1866(慶応2)年
1867(慶応3)年
 
1868(慶応4)年
1869(明治2)年
 
 
1870(明治3)年
肝付兼善の三男として誕生。篤姫、坂本龍馬もこの年に誕生。
篤姫、島津斉彬に養子となり江戸へ発つ。
江戸勤務となり、島津斉彬小姓につく。
小松家の養子となり跡継ぎとなる。
篤姫、将軍家定の正室となる。
帯刀と改名。火消隊長となる。斉彬急死。
大久保らと上京。寺田屋事件、生麦事件。
家老に命じられる。
生麦事件が原因で薩英戦争勃発。
坂本龍馬、鹿児島着。
京都小松低で薩長同盟が締結。
龍馬、京都で襲われ鹿児島に旅に出発。
城代家老に命じられる。
戊辰戦争。江戸城無血開城。
領地である吉利領の返上を申し出、版籍奉還の模範を示す。
大阪で病死(36歳)。
鹿児島市宝山ホールに立つ小松帯刀像(左)


小松家お仮屋跡(日置市・吉利)
小松帯刀が第29代領主をつとめた吉利の麓は、朝日の逆光の中にありました。
吉利郷
吉利郷(現日置市吉利)は、文禄4年(1595年)に、禰寝(ねじめ)(現南大隅町)から領地替えされてきた禰寝氏の領地でした。藩政時代になると『お仮屋』(領主館)が現在の吉利小学校の敷地に設けられ領内を治めていくことになりました。
 
その禰寝氏の享保19年(1734年)に当主となった24代清香は、祖先とされる平重盛が小松内大臣であったことにちなんで、姓を小松に変えました。
藩政時代を彷彿とさせる景色が随所に見られます(上)。『お仮屋』が置かれていた吉利小学校の正門(右)。ここに御成門が置かれていました。
第29代当主・小松帯刀
藩主島津斉彬(なりあきら)の信頼の厚かった第28代当主小松清猷(きよもと)は海防出張中に琉球で客死します。清猷に子がなかったため、斉彬は肝付尚五郎に小松家を継ぐよう命じ、22歳のとき、清猷の妹のおちか(お千賀)の婿となって養子入りして小松家の家督を継ぎ、24歳のとき小松帯刀と改名しました。
吉利小学校の西校門前横にある卒業生寄贈の像は、児童を厳しくも暖かく見守っているふうでした(左)。
お仮屋跡
お仮屋は、文禄4年(1595年)領主の宿舎(役所)として建てられたもので、以来明治元年(1868年)まで使用されました。お仮屋を中心にして、西門には倉が置かれ、その一段下に蔵門があり、米蔵や宿次所がありました。正門は御成門といって南側にあり、石段を上がるとお仮屋が、その東の角に宝物倉、下段には櫨蝋(はぜろう)をつくるための垂蝋所と弓場があり、北の道は馬乗馬場になっていました。
西校門からみた吉利麓の通り(下)。


園林寺(おんりんじ)跡と鬼丸神社
小松帯刀の墓

小松家の菩提寺であった園林寺跡に小松家歴代の墓があります。
帯刀の墓は、吉利集落を見下ろす最前列に妻おちか(お千賀)の墓と並んで建てられています(写真右)。献花させている手前の墓が帯刀の、向こうがおちかの墓。手前に28代清猷(きよもと)の墓もあります。園林寺は、曹洞宗の寺で本尊として禰寝より運んできた阿弥陀如来像がありましたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈でそのほとんどが失われてしまいました。墓地へ続く道の入口にある仁王像その不幸な歴史を物語っています(写真上)。

鬼丸神社
鬼丸神社は、禰寝家16代右近大夫重長の霊を祭る旧吉利村の村社です。17代重張公は文禄4年島津家より、吉利に移封を命ぜられ、父重長公の霊を捧持して、霊域現在地に祭りました。重長公は剛勇で才幹があり、領民に仁恵の念が暑く、徳政を布き、その徳風は禰寝(ねじめ)どんといって尊敬されました。鬼丸神社の御神田では毎年6月、飛んだり跳ねたりしてどろんこになる『せっぺとべ』というお田植え祭が行なわれています。


清浄寺(しょうじょうじ)と小松帯刀像
清浄寺

清浄寺(しょうじょうじ、写真下)は、小松家御仮屋跡である吉利小学校を見下ろす小高い丘の上にある真宗大谷派の寺です。小松家の菩提寺は、かつては園林寺でしたが、廃仏毀釈で破壊されたので墓地のみを残し、『小松家累代之総儀』の位牌を清浄寺に安置するようになり、以来清浄寺は園林寺に変わる小松家の新たな菩提寺となりました。
 
清浄寺扁額『清淨山』(写真右)は、第28代小松清猷(きよもと)13歳の書と言われます。

小松帯刀像
NHK大河ドラマ『篤姫』の放送開始を1ヶ月後に控えた2007年12月、地元住民らで組織された『小松帯刀を守る会』の皆さんによって、清浄寺に建てられたのが上の写真の小松帯刀の像です。小松像は、1994年に、鹿児島市の宝山ホール前に設置された銅像(本ページの冒頭の写真の像)を制作した際の原型を再利用して作られたそうです。


喜入(きいれ)
藩政時代の面影を残す喜入の町並み
肝属家55百石
鹿児島市街から錦江湾(鹿児島湾)に沿って国道 226号を約20km南下したところに、喜入(きいれ)という縁起の良い地名の町があります(合併により現在は鹿児島市に編入)。日本石油(現・新日本石油)の原油備蓄基地があることで知られている町ですが、藩政時代は肝属家55百石の領地でした。薩摩藩の武家集落(麓)は、他藩の土塀・板塀の武家門と異なり、石垣に生垣の武家門構えが特徴的です。
肝属家お仮屋跡(写真下)
領主は通常は鹿児島城下の本邸に寝起きし、見廻りや何か事あるときに領地に留まりました。お仮屋は、領主の別邸であり、領地の行政を行なう場所でした。肝属家のお仮屋は、現在の喜入小学校の地に置かれていました。喜入小学校の正門前の大通りは、当時の馬場であり、付近一帯の家は、肝属家家臣時代の面影を今にとどめています。
肝属家お仮屋跡(現喜入小学校)


小松帯刀屋敷跡(鹿児島市)
小松帯刀の屋敷跡
慶応2年(1866年)1月、坂本龍馬の仲介で、西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の木戸孝允は、倒幕運動に協力する旨の薩長同盟を京都の小松屋敷において結びますが、またそれに先立ち、坂本龍馬は慶応元年(1865年)5月に、鹿児島に来ており、原良にあるこの小松屋敷に宿泊しています。そこで薩長同盟の構想が練られたのかも知れません。小松帯刀屋敷跡には当時の建物は残っておらず民家になっていて、重厚な石垣だけが当時の面影を留めています。
 
       坂本龍馬とお龍の新婚旅行
 
新撰組や見廻組(みまわりぐみ)が龍馬を血まなこになって捜している京の町中を龍馬とお龍は手をつないで平気で歩くので、野放図な二人に閉口した西郷隆盛が、龍馬を暗殺者から守るために、二人を薩摩へ旅立たせます。龍馬とおりょうは、温泉で傷をいやしたり、高千穂峰に登ったりしながら霧島に遊びました。薩摩への88日間の旅は日本最初の新婚旅行といわれるようになりましたが、この旅行の段取りをしたのが時の薩摩藩家老小松帯刀であったといわれます。
 
補遺(1)− 帯刀とおちか 〜日本初の新婚旅行?
2008年5月5日の地元紙(南日本新聞)の朝刊に、薩長同盟奔走時に長崎から妻・おちか(お千賀)に送付したとみられる帯刀の手紙が日置市の民家に保管されているという記事が載りました。長崎に十日に到着し、足の痛みは心配ないこと。お近の体を気遣い、薬と思われる『清心丸』を送ったことなどが記され、妻への思いやりにあふれた手紙だそうです。
 
また、2008年1月27日の同紙朝刊は、日本初の新婚旅行は坂本龍馬(写真右)ではなく小松帯刀だったという、鹿児島市のNPO法人かごしま探検の会の東川隆太郎さんのユニークな説を紹介しています。1866年の龍馬夫婦の新婚旅行よりさかのぼること10年前、結婚直後の1856年(安政3年)4月、帯刀は夫婦で栄之尾(えのお)温泉(霧島市牧園町高千穂の霧島いわさきホテル周辺)を訪れ、義父の清穆(きよあつ)の湯治を兼ねて霧島滞在を楽しんだということです。
 
 
こちら(右の写真)は、
霧島市牧園町塩浸温泉に建つ
      『坂本龍馬お龍新婚湯治の碑』
 
補遺(2)− お琴の墓(園林寺)
帯刀が長く国許を離れていた間、帯刀の身の回りの世話をしていたのが、京都祇園の名奴とうたわれたお琴(琴仙子、ことこ)という女性でした。帯刀のいわゆる愛妾で、のちに帯刀の第二夫人になります。帯刀が病床に伏すと献身的に看病したお琴は、帯刀の死を痛み、『わたしが死んだら帯刀公の傍らに埋めてほしい』という遺言を残したそうです。現在、お琴の遺骸は、園林寺跡小松家墓地の一隅に葬られています(写真左)。第二夫人(愛妾)だった人が同じ墓地内に葬られるというのは異例のことと言えるでしょうが、お琴の墓が園林寺に移されたのは、生前のおちかの計らいだったそうです。おちかとの間に子がなかったため、お琴との子・清直(きおなお)が小松家を継ぐことになります。続きは
 
【編集後記】
2008年NHK大河ドラマ『篤姫』も好評のうちに、12月14日の最終回を終えました。第49回(12月7日放送)では、篤姫と小松帯刀(養子にいく前の肝属尚五郎)の再会のシーンがありましたが、元々宮尾登美子さんの原作に小松帯刀は登場していません。脚本の田渕久美子さんは、薩摩藩の若き家老であり、西郷や大久保にも匹敵する働きを残しながら、これまで歴史の中でとりあげられることの少なったヒーロー、小松帯刀にもスポットを当ててみたいという思いがあって、ドラマに登場させたそうです。しかも、篤姫に恋心を抱く幼馴染という設定によって、ドラマに一層の面白さが加わりました。
 
田渕久美子さんは、脚本を書くにあたり現地取材で、篤姫の実家である指宿の今和泉家別邸跡にも行かれ、砂蒸し温泉にも入られたそうですが、NHKが来たということで地元では、海運業・造船業・貿易で力を発揮し、『安政年度長者鑑』の筆頭者となった薩摩の豪商『浜崎太平次』が取り上げられるという思い込みが先行していて驚かされたそうです。つまり、今でこそ全国的に知られるようになった篤姫と小松帯刀ですが、大河ドラマ放送以前は地元鹿児島でも知る人ぞ知る存在だったということです。
 
日置市吉利に小松家のお仮屋跡や小松帯刀の墓、鹿児島市喜入に藩政時代の面影を今に残す肝属領武家集落の町並みなどを訪ね、このページをアップロードしたのは、大河ドラマが始まった今年(平成20年)1月のことでしたが、どこもかしこも初めての訪問で、初めて見聞きすることばかりで、いかに地元県内の歴史にうとかったかを実感する羽目になったのでした。
 
大河ドラマの展開が進むにつれて、たくさんの人にみて頂くようになり、あちこちのWebサイトやブログでもリンクも張って頂いたことはうれしいことでした。(2008.12.15記)
 
 
 レポート  ・ 小松帯刀(こまつたてわき)
 レポート  ・ 芸妓・お琴のこと 〜 篤姫の周辺
 Information  ・ 小松帯刀、おちか、お琴さんの墓
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