レポート  ・小松帯刀(こまつたてわき)   
− 小松帯刀(こまつたてわき) −
2008年NHK大河ドラマ『篤姫』で、瑛太さん演じる篤姫の幼なじみの肝属尚五郎(きもつきなおごろう)は、『幻の宰相』といわれた、のちの小松帯刀です。薩摩といえば、西郷隆盛であり大久保利通ですが、下級武士に過ぎなかった西郷や大久保らを近代日本史に残る英傑へとその才能を引き出し支援したのが、27歳の若さで薩摩藩家老となった小松帯刀その人だったといわれています。ちなみに、小松は西郷よりも7歳、大久保よりも5歳年下でした。
 
鹿児島市街から錦江湾(鹿児島湾)に沿って国道 226号を約20km南下したところに、喜入(きいれ)という縁起の良い地名の町(合併により現在は鹿児島市に編入)があります。日本石油(現・新日本石油)の原油備蓄基地があることで知られてた町ですが、藩政時代は肝属家の領地でした。肝属尚五郎は、天保6年(1835年)に喜入領主・肝属兼善(かねよし)の三男として鹿児島に生まれます。母は島津久貫の娘。同年に篤姫や坂本龍馬が生まれています。
 
幼少より儒学を学ぶなど学問を好み、昼夜を問わず勉学に励む日々であったといわれ、また、幼少の頃から彼の利発さは衆目の認めるところだったようで、21歳のとき江戸勤務を命ぜられ、奥小姓として第11代藩主島津斉彬(なりあきら)近くに仕え、影響を受けるようになりました。
 
一方、薩摩半島の喜入とは反対側の東シナ海沿いに吉利(よしとし)という町(合併により現在は日置市日吉町)があります。この吉利領を治める小松家の第28代当主・小松清猷(きよもと)は斉彬の信頼も厚く、また肝付尚五郎や篤姫、篤姫の兄・島津忠敬(ただゆき)らに学問を教えた人ですが、その清猷が、尚五郎22歳のとき、海防出張中に琉球で客死してしまいます。
 
清猷に子供がなかったので、斉彬は肝付尚五郎に小松家を継ぐよう命じ、鹿児島に帰国させます。清猷の妹の千賀(チカ)の婿となって養子入りし、第29代当主として小松家の家督を継ぎました。そして、24歳のとき、尚五郎を改め小松帯刀と改名しますが、この年、斉彬が急死します。
 
斉彬亡き後、島津久光に才能を見出されてその側近となった小松は、一藩の財政・商工業・軍事・教育などをその若い双肩に担い、島津久光の懐刀として活躍、文久2年(1862年)には久光による上洛に随行し、その帰国後、27歳の若さで家老職に就任しました。
 
京都における活動では、朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務めました。在京中は土佐藩士の坂本龍馬と昵懇となり、龍馬の亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、龍馬がお龍を妻としてめとった際の世話役も務めています。
 
なお、薩長同盟における密約やその際に長州藩代表の桂小五郎が滞在したのも、京都における小松の屋敷だったといわれます。慶応3年(1867年)の薩摩藩と土佐藩との盟約で ある薩土同盟など、諸藩との交渉において大きな功績を立てました。
 
徳川慶喜が諸大名を集め、京都・二条城で大政奉還を発表したとき、小松が薩摩藩の代表として参上しました。明治維新後は、新政府の参与として版籍奉還を画策するなど、これからが期待される人材でしたが、明治3年(1870年)に36歳の若さで病死しました。『幻の宰相』と呼ばれるゆえんです。(斉彬亡き後からの文章は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用、一部編集)
 
【参考】
下記に旅行記があります。
■旅行記 ・小松帯刀ゆかりの地〜篤姫の周辺 − 鹿児島県
   → http://washimo-web.jp/Trip/Komatsu/komatsu.htm
 

2007.01.16 
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