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龍馬新婚旅行の地〜霧島 − 鹿児島県
                        
伏見寺田屋事件で九死に一生を得た坂本龍馬は、慶応2(1866)年3月、西郷隆盛らのすすめで、妻のお龍(りょう)とともに、塩浸温泉(現鹿児島県霧島市牧園町)で傷をいやしながら霧島に遊びました。二人は、山頂にある『天の逆鉾(あまのさかほこ)』を見に高千穂峰(たかちほのみね)にも登り、龍馬はその登山の様子を絵入りの書簡にしたためて姉の乙女(おとめ)に送っています。その書簡によると、天の逆鉾の彫り込みが天狗に似ていると言って二人で笑ったり、霧島神宮にお参りしたりしたそうです。鹿児島への旅88日間は、二人の生涯で最も楽しいひと時で、日本最初の新婚旅行と言われています。龍馬は、翌年11月、京都近江屋で刺客の凶刃に倒れます。享年33歳でした。アマテラスオオミカミ(天照大神)の命によって、ニニギノミコト(瓊々杵尊)が降臨したと言われる高千穂峰やニニギノミコトを祀る霧島神宮、龍馬とお龍が入った湯治の浴槽が今も残されている塩浸温泉など、龍馬とお龍新婚旅行ゆかりの地の風景をアップロードしました。                                (旅した日 2005年03月、2010年8月)
       
      
霧島神宮
ニニギノミコトを祀る霧島神宮(写真上)
天孫降臨の神話によると、アマテラスオオミカミ(天照大神)は、孫であるニニギノミコト(瓊々杵尊)に、高天原から降りてこの国を治めよと命令しました。ニニギノミコトは、三種の神器を譲り受け7人のお供の神と一人の道案内の神と共に高千穂の峰に降りたといわれます。このニニギノミコトを祀ったのが霧島神宮です。創建が6世紀という古い歴史を誇る神社で、以前は高千穂峰の西麓に位置する高千穂河原にありましたが、霧島のだび重なる噴火で炎上し、再建を繰り返した後、正徳5(1715年)に藩主島津吉貴公の寄進によって現在の場所に造営されました。本殿には、ニニギノミコト以下7柱が祀られています。絢爛(けんらん)たる朱塗の本殿、拝殿、登廊下、勅使殿など、その配置の妙を得て宏大で壮麗な美しさです。平成元(1988)年に国の重要文化財の指定を受けました。
  
龍馬夫妻は、慶応2年(1866年)3月29日、高千穂峰登山を終えたあと、この霧島神宮に参拝し、御神木の樹齢千年近い大杉を見、その晩は神宮の別当・華林寺の宿坊に泊まりました。その寺は現在はなく当時の石垣だけが残っています。
            
霧島神宮の巫女さん(写真上)
         
         
高千穂峰
高千穂峰の風景と霧島神宮の大杉(写真上)
ニニギノミコト(瓊々杵尊)が降臨したと言われるのが、霧島山群の中でもひときわそびえ立つ高千穂峰(標高1,574m、です。山頂には、ニニギノミコトが降臨した際に逆さに突きたてたという『天の逆鉾(あまのさかほこ)』(鬼面を削りこんだ長さ1.5mの銅製の剣、写真上右)が祀られています。西麓に位置する高千穂河原(標高970m、写真上左)は霧島神社古宮があった場所で 、現在は高千穂峰などの登山口となっています。霧島連峰は、昭和9年(1934年)わが国最初の国立公園に指定されました。写真下左は、樹齢千年近いといわれる霧島神宮の後神木の大杉。なお、『天の逆鉾』の写真は、PhotoMiyazaki 宮崎観光写真の提供によります。
   
高千穂峰に新婚登山に登った龍馬夫妻は、一面化粧をしたように綺麗に咲き誇るミヤマキリシマツツに感動し、天の逆鉾の側面に彫ってある天狗の顔を見ては、『思いもかけぬおかしな顔つきの天狗の面である』と言って二人で大笑いしました。また、『馬の背越え』では、あまり危なっかしいので、龍馬はお龍の手を引いてやりました。などと、姉・乙女へ宛てた手紙に書かれてあります。
高千穂河原より望む高千穂峰。登山中の人が見えます(写真上)
    
    
新婚湯治の地(塩浸温泉)
リニューアル前の『塩浸温泉』(写真上)
霧島から隼人へ下る国道223号線沿いの温泉郷にある『塩浸温泉』は、2010年リニューアル前は、『牧園町営塩浸温泉福祉の里』として運営されていた温泉場で、坂本龍馬とおりょうが実際に入った『湯治の浴槽』(上の写真の左下)も当時まま残されていました。『坂本龍馬お龍新婚湯治の碑』(写真左上)は、1998年(平成元年)に建てられたもので、『近代日本の礎を築いた龍馬ゆかりの地に、町内外の浄財を仰ぎ、この像を建て後世に伝えるものである。平成元年11月』とあります。2010年リニューアルされ、『塩浸温泉龍馬公園』(写真下)として生まれ変わりました。上の写真は、今では貴重な写真となりました。
龍馬夫妻は、霧島滞在26日間のうち18日間をこの塩浸温泉で過ごしました。温泉に浸かって手傷を治療し、谷川で魚を釣ったり、ピストルで鳥を撃つなどして、龍馬は人生で最も楽しい時期を過ごしました。
2010年リニューアルして『塩浸温泉龍馬公園』へ(写真上)
  
  
龍馬とお龍の新婚旅行 旅程

慶応2年
(1866年)
1月21日 薩長同盟成立。
1月23日 京都伏見寺寺田屋で幕士に襲われ手傷を負うもピストルで応戦して危機を脱する。
3月4日 大阪で薩船『三邦丸』に乗船して、小松帯刀、西郷隆盛、桂久武、吉井友実らと鹿児島に向う。
3月10日 鹿児島着。西郷、小松、吉井邸に泊まる。
3月16日 錦江湾に浮かぶ桜島を眺めながら、船で浜之市港へ。上陸して、日当山温泉へ泊まる。
3月17日 この日より塩浸温泉で11泊し手傷の治療をする。
3月28日 栄之尾温泉で療養中の小松帯刀を見舞い、硫黄谷温泉泊。
3月29日 高千穂登山を果たし、霧島神宮に参拝。神宮の別当・華林寺の宿坊に泊。
3月30日 再び硫黄谷温泉泊。翌4月1日、塩浸温泉へ帰り7泊する。
4月8日 日当山温泉へ帰り3泊する。
4月11日 船待ちで浜之市港に一泊する(宿が不明)。
4月12日 浜之市港より乗船して鹿児島へ帰る。小松帯刀の原良(はらら)別邸に約50日間滞在。
6月2日 桜島丸で天保山より出港し、帰途につく。

上表で月日は旧暦。1月21日は新暦の3月7日、6月2日は7月13日に当たる。全日程83日間(内訳:鹿児島市57日間、日当山温泉4日間、浜之市1日間、塩浸温泉18日間、霧島温泉2日間、華林寺1日間)。参考資料:霧島市の『塩浸温泉龍馬公園』パンフレット。『龍馬とお龍の日本最初の新婚旅行』(薩摩龍馬会・前田終止氏)。
    
    
いぬかいのたき
犬飼滝
2010年7月、雨後の水を大量に落す『犬飼滝』(写真上)
犬飼滝は、高さ36m、幅22mの滝で、龍馬とお龍は塩浸温泉に滞在中この滝に遊びました。姉・乙女への手紙には下記のようにあります。犬飼滝は、鹿児島弁で『いんけん滝』と言っていたのを聞いて、『陰見の滝』と当て字したようです。
此所は、もう大隅の国にて和気清麻呂が庵を結びし所、陰見の滝其の布は十間も落ちて、中程には少しでもさわりなし。実、この世の外かと思われる候ほどめずらしき所なり。此処に十日計も止まりあそび、谷川の流れにて魚をつり、短筒をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりし。(現地案内板より)
     
    
わけじんじゃ
和気神社
和気神社(写真上)
  
    
       和気清麻呂公と猪
  
和気神社の拝殿前には狛猪があり、絵馬にも猪が描かれています(写真右)。これは配流の際に、宇佐神宮に参詣しようと豊前国に上陸したところ、猪が御輿を守ったとの伝説により、
猪が和気清麻呂公の守護神とされているためです。
  
境内では、近隣の妙見温泉観光協会が1995年の亥年に奉納した白いイノシシが飼われており、
『あいちゃん』という愛称が付けらています。また、2007年の亥年には、イノシシの大絵馬が作られました。
  
『和気神社』は、犬飼滝のすぐ近くにある神社で、和気清麻呂公を祭神とします。和気清麻呂公は、769年、宇佐八幡宮神託事件に関連して、当時の権力者であった道鏡によって大隅国へ遠島となり、後に名誉回復されて京へ戻っています。
  
和気神社は、1853年(嘉永6年)、薩摩藩第1
1代藩主島津斉彬が日向国・大隅国を視察した折に、この地が和気清麻呂公流謫(るたく)の地として調査確定されたことに始ます。そして、終戦後の1946年(昭和21年)に鎮座祭が行われて現在に至っています。従って、坂本龍馬がもの地域を訪れたときには、まだ神社は祀られれおらず、斉彬公のお手植えの松があっただけでした。
  
   
和気神社の絵馬(写真上)
         
         
硫黄谷温泉(霧島ホテル)
龍馬とお龍の写真(写真上)。霧島ホテルフロントロビーで撮影。
江戸時代末期の霧島は硫黄の採掘が盛んでした。当時、硫黄採掘の親方だった堀切武右衛門は、みょうばん温泉の湯を使う『霧島館』という湯治宿を買収し、硫黄採掘人夫の宿舎および休憩所に当てました。これが今の『霧島ホテル』です。
 
慶応2年(1866年)3月、龍馬とお龍は、栄之尾温泉で療養中の小松帯刀を見舞った日と高千穂登山に登り、霧島神宮に参詣した翌日の二晩、この『霧島館』に泊まりました。
  

武右衛門は、
シャモ(薩摩軍鶏)をつぶし、”薩摩料理”で龍馬とお龍を歓待したそうです。
昭和15年頃の硫黄谷温泉『霧島館』(現霧島ホテル)(写真上)。写真:霧島ホテル提供。
美しい杉木立に囲まれた現在の霧島ホテル(写真上)
その霧島ホテルでは、龍馬とお龍の写真や龍馬が姉・乙女(おとめ)に宛てた書簡のレプリカ、犬飼滝の鳥を撃って遊んだという短筒(ピストル)のレプリカなど、龍馬に関した興味深い資料がたくさん展示されています。
 
また、武右衛門が龍馬とお龍に振る舞ったというシャモ鍋が黒豚付のゴージャス版と復活し、平日限定の
『龍馬定食』として提供されています。霧島温泉郷に湧き出る温泉のうち、27の泉源から湯を引いているという霧島ホテルの温泉は、1日1,400万リットルもの湯量があるそうです。大迫力『硫黄谷庭園大浴場』を名泉の数々と閑静な露天風呂がとりまいています。
掛け流し温泉『硫黄谷庭園大浴場』(写真上)。写真:霧島ホテル提供。
姉・乙女への手紙(レプリカ)
姉の乙女(おとめ)に送って書簡のレプリカ(写真上)。霧島ホテルで撮影。
日当山温泉
龍馬とお龍を渡した天降川の渡し(写真上)
天降川をはさんで両岸にある『日当山(になたやま)温泉』は、鹿児島県内で最も古い温泉といわれ、古くから鹿児島の奥座敷として栄えた温泉でした。今でも、昔ながらの共同浴場が多く、隼人・新川渓谷温泉郷の一部として国民保養温泉地にも指定されています。宿泊施設は、10軒程度の旅館やホテルが点在し、温泉街の南西部にヒルコ伝説にちなむ蛭児神社と西郷隆盛が宿泊していた宿を復元した『西郷どんの宿』があります。
  
龍馬とお龍は、
浜之市に上陸した3月16日と、浜之市港を出港する前の4月8〜11日をここで過ごしました。
西郷どん(西郷隆盛)が愛用したという温泉宿(写真上)
  
    日当山侏儒どん
  
日当山侏儒(しゅじゅ)どんは、実名を徳田大兵衛といい、島津第18代・19代の殿様に仕え寵愛を受けました。
背の丈はわずかに3尺(約1m)の小人だったといわれます。侏儒どんの頓知話は、その没後も350有余年の今日まで庶民の間に、語り伝えられてきました。侏儒どんは、1634年(寛永11年)、一世の奇人にふさわしく、都城の北郷殿宅で祝餅を喉にひっかけて頓死したと
伝えられています。時に51歳。龍馬とお龍の渡しがある日当山温泉公園の入口に石像が建てられています。
静かな日当山の通り(写真上)
坂本龍馬上陸の地(浜之市港)
今は静かな漁港となっている浜之市港(写真上)
龍馬上陸の地の案内板(写真上)
   
龍馬とお龍が歩いた道は『龍馬ハネムーンロード』と銘打たれ、各個所に案内板(写真下)が立てられています。
  
鹿児島神宮の秋の例大祭では、鹿児島神宮〜浜之市間(片道4.5km)を往復する
御神幸(お浜下り)が行われ、浜之市では、隼人の霊を慰める放生会(ほうじょうえ)が行われます。
   
浜之市(はまのいち、はまんち)は、霧島市の鹿児島湾に面した港湾であり、鉄道や道路が発達する以前は
鹿児島湾北部における交通の要衝でしたが、現在は静かな漁港となっています。
  
龍馬とお龍夫妻は、慶応2年(1866年)の
3月16日ここに上陸して、日当山、塩浸温泉、霧島温泉など26日間の新婚旅行を楽しんだあと、4月12日鹿児島に向けて浜之市港を出港しました。
  
『龍馬ハネムーンロード』に立てられている案内板(写真下)
坂本龍馬新婚の旅碑(鹿児島市天保山公園)
坂本龍馬新婚の旅碑(写真上・下)
慶応2年(1866年)、3月10日、薩船『三邦丸』で、小松帯刀、西郷隆盛、桂久武、吉井友実らとともに入港し、同年6月2日桜島丸で出港して帰途に着いた地である鹿児島市の天保山にも『坂本龍馬新婚の旅碑』が建てられています。銅像は中村晋也氏によって制作されたもので、1980年(昭和55年)に設置されました(アクセスは、JR鹿児島中央駅から車で10分、あるいはJR鹿児島中央駅から市営バス『熱帯植物園前』下車、徒歩3分)。
  
坂本龍馬が滞在したといわれる小松帯刀別邸は鹿児島市原良にありましたが、実は、龍馬は、薩長同盟がなる約一年前の慶応元年(1865年)5月に鹿児島入りし、この小松別邸に宿泊しているのです。そこで薩長同盟の構想が練られたのかも知れません。
坂本龍馬が滞在したと言われる小松帯刀別邸跡(写真下)
        
        
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