レポート  ・芸妓・お琴のこと 〜 篤姫の周辺   
− 芸妓・お琴のこと 〜 篤姫の周辺 −
島津久光に取り立てられ、27歳の若さで薩摩藩の家老職に就いた小松帯刀が長く国許を離れ京に滞在中、帯刀の身の回りの世話をしていたのが、京都祇園の名奴とうたわれたお琴(琴仙子、ことこ)という女性でした。
 
帯刀のいわゆる愛妾で、のちに帯刀の第二夫人になりますが、芸技、学問にも優れ、和歌の道にも秀でていたといわれます。帯刀が京都から鹿児島へ帰る時、別れを惜しんで詠んだといわれる和歌が残っています。
 
『鳴渡る雁の涙も別れ路の袂にかかる心地こそすれ 小松帯刀』、
 
この返し歌に、 
 
『うちいづる今日の名残り思いつつ薩摩の海も浅しとやせん お琴』
 
2008年NHK大河ドラマ『篤姫』で、どんな雰囲気の女性で登場するか楽しみにしていましたが、第40回『息子の出陣』(10月05日放送)で初登場した原田夏希さん演じる芸妓・お琴は、積極的で開けっぴろげな華やかさを持った女性のようです。
 
さて、帯刀が病床に伏すと献身的に看病したお琴は、帯刀の死を痛み、『わたしが死んだら帯刀公の傍らに埋めてほしい』という遺言を残します。現在、お琴の遺骸は、鹿児島県日置市日吉町吉利の園林寺(おんりんじ)跡の小松家墓地の一隅に葬られています。
 
明治3年(1870年)に、帯刀が36歳で亡くなったとき、お琴は22歳でした。その4年後に26歳の若さで亡くなりますが、そのとき、46歳だった正妻・おちかは、病弱と言われながら56歳まで生きました。
 
第二夫人(愛妾)だった女性が歴代当主と同じ墓地内に葬られるというのは異例のことと言えるでしょうが、お琴の墓が園林寺に移されたのは、生前のおちかの計らいだったそうです。
 
お琴は、慶応2年(1866年)に、長男・安千代を、明治3年(1870年)に長女・壽美(スミ)を出産しましたが、帯刀が亡くなると、安千代をおちかに預けて自身は壽美とともに帯刀と親交の厚かった五代友厚邸で余生を送りました[1]
 
おちかとの間に子供がなかったため、小松家ではすでに養子・清緝(おちかの甥)をもらっており、明治3年に29代として家督を継ぎましたが、おちかに育てられた清直(きおなお、幼名・安千代)が明治5年に新たに30代として家督を継ぎました。
 
清直の長男は、祖父と同じ”帯刀”を名乗り、祖父・帯刀の維新の功により伯爵を授けられて貴族院議員をつとめました。こうしてみると、小松帯刀とお琴との出会いは、まさしく運命的な出会いだったと言えるでしょう。
 
下記のページで、園林寺の帯刀、おちか、そしてお琴の墓の写真が見れます。
 
・小松帯刀、おちか、お琴さんの墓 〜 篤姫の周辺
  → http://washimo-web.jp/Information/onrinji.htm
 
【参考にしたサイト】
[1]三木琴:フリー百科事典『ウィキペディア』
[2]小松帯刀(小松清廉、肝付尚五郎)
  → http://www.rekishi.sagami.in/tatewaki.html
 
*備考
歴史作家・桐野作人氏の書かれている『さつま人国誌』(南日本新聞の公式サイト)には、“お琴は小松との間に、上から安千代、辰次郎(早世)、於須美(おすみ)の三人の子をもうけ、小松の死後、安千代と於須美はお琴とともに大阪に住んでいたが、お琴がなくなると、幼い2人は五代友厚に保護されたあと、鹿児島のおちかに引き取られた”とあります。
 

2008.10.08
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