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♪アルバム・リーヴス(メリカント) | ||
Classic MIDI album | ||
知覧(2) − 特攻の町 − 鹿児島県南九州市知覧町 |
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薩摩半島の南部中央に位置する町・知覧。江戸時代中期の武家屋敷群が残り、薩摩の小京都とよばれるこの静かな佇まいの町に陸軍知覧飛行場が完成したのは、日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦した1941年(昭和16年)のことでした。そして、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、戦局の悪化に伴い沖縄戦における本土最南端の陸軍特攻基地となり、多くの若者が南海の果に飛び立っていきました。知覧特攻平和会館内には、特攻戦没者1036名(知覧からの出撃者は436名)の遺品や関係資料が展示され、特攻平和観音堂には1026柱の特攻隊員の霊が祀られています。 (旅した日 2003年03月) |
知 覧 |
知覧特攻平和会館へ通じる参道 |
薩南の涯(はて)の山のなかの静かな町。と号(特攻)要員と呼ばれた若者や少年たちが、青春の最後の幾日かを過ごした町。祖国の難に一命を捧げた隊員たちの特攻機が250キロの爆弾を抱えて、よろけるように飛び立っていった町。そんな隊員や、それを取りまいた人びとの、さまざまな思いが罩(こ)められている町、知覧。 |
神坂次郎文学碑「今日われ生きてあり」より |
開聞(かいもん)岳 |
知覧を発進した特攻機は、機首を開聞岳(写真上)に向け一周して南海の空に消えていきました。 |
「帰るなき機をあやつりて征(ゆ)きしはや 開聞よ 母よ さらばさらばと」 − 鶴田正義慰霊歌碑より |
知覧特攻平和会館 |
知覧特攻平和会館 |
雄々しく大空に散華された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することを旨として、特攻平和会館(写真下)が建立されました。館内には、特攻戦没者1036名の遺品や関係資料が展示されています。昭和50年(1975)に公園の休憩所を利用して遺品館を開設しましたが、全国各地から訪れる人々が増え、多くの反響が寄せられたため、昭和60年度(1985年)から2ヵ年計画で知覧町によって建設さらたものです。 |
慟哭(どうこく)、誓いの碑 |
特攻銅像・とこしえに |
慟哭、誓いの碑 この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、 民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓う LAMENTATION, MONUMENT OF PLEDGE NO MORE TRAGEDY. WE HEREBY VOW ETERNAL PEACE FOR ALL MANKIND THROUGHOUT TEH WORD, IRRESPECTIVE OF NATIONS AND RACES |
特攻銅像・とこしえに |
碑(写真上)の裏面には、「さつま同郷の有志これを建つ 平成12年11月」とあります。 ※ 慟哭(どうこく)・・・「はげしく泣き悲しむこと」 |
やすらかに 特攻隊の若い命は再び帰らず。 出撃の瞬間まで求めたであろう母の姿。 この晴姿をせめて母上に一目 最後の別れと、お礼を一言。 胸を張り裂けそうな、その心情は、 母もまた同じであったろう 今ここに立つ母の姿 とこしえに母と共に安らかに 母の温かいみ胸で、 御霊の安らかならんことと 世界・平和を祈念して。 昭和六十一年三月三十日 熊本県芦北町 前田将 |
母の像 | 平和の鐘 | ||
平和の鐘 平和会館の前庭にある 平和の鐘は、 訪れる人によって 突かれ、 南洋の空に散った 隊員の冥福と 恒久平和を願って 鳴り止むことが ありません。 |
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飛行学校知覧教育隊 |
− 飛行学校知覧教育隊 − 由来 太刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校(福岡県朝倉市ほか)知覧教育隊(当初分教所)は、昭和16年末知覧飛行場の完成を待って創立、先ず第10期少年飛行兵の教育を開始、以後、少年飛行兵、下士官学生、特別操縦見習仕官等が相次で入隊、猛烈な教育訓練の下、数多の飛行機操縦者が巣立った処である。然るに教育期間僅か2年9ヶ月にして戦局の推移と知覧飛行場の地理的戦略的関係により、昭和19年9月、町民の念願も空しく教育隊は解隊、その前後に隊員は京城(ソウル)を初め、内外の各教育隊に転属、後には飛行戦隊が駐留、昭和20年には遂に特攻の基地と化した。 |
知覧教育隊之記念碑 | 飛行学校知覧分教所門柱 | ||||
想えば当飛行場は、教育隊時代、隊長をはじめ教官助教学生軍属が一丸となり、祖国の安寧と東洋平和建設の為熱き血を沸かせた処である。吾々の若き日の汗の染みこんだこの地に知覧教育隊の存在した事実を後世に伝えると共に、戦争の悲劇が二度と繰り返されることなく、世界の恒久平和の確立が一日も早からんことを希って、この記念の碑を建立する。昭和60年4月7日。 この門柱(写真右)は、昭和16年(1941年)12月、この地に開港された太刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊分教所(のちに教育隊となった)の正門です。終戦後、昭和26年(1951年)から旧知覧中学校正門として使用されていましたが、昭和56年(1981年)の統合により閉校となったため現在地に移設復元されたものです。 (以上、文は、いずれも記念碑の説明文を そのまま引用したものです)。 |
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三角兵舎 |
三角兵舎入口 | 三角兵舎内部 | |||
真心をこめて全国の女学生から贈られたお守り人形に喜ぶ特攻隊員 | 出撃服装に身をかため集合命令を待つ特攻隊員 | |||
全国から贈られた千羽鶴 | 陳列された特攻機の残骸 |
三角兵舎は特攻隊員の宿舎でありました。敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕をつくり、地上には三角の屋根しか見えない兵舎でした。各地から集まった隊員は、ニ・三日後には雲のかなた沖縄の空に散華されました。出撃の前夜には、この三角兵舎で壮行会が催され、酒を酌みかわしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙をしたためて、死地に赴いたのであります。ここに、三角兵舎を復元し、当時を偲ぶよすがとするものであります。(三角兵舎入口に掲げられた説明文をそのまま引用) |
特攻の母・鳥濱トメ |
鳥濱トメさん顕賞の碑 |
鳥濱トメさん(1992年、89歳で死去)は、明治35年(1902年)に鹿児島県坊津町という小さな港町のとても貧しい家に生まれますが、昭和4年(1929年)に知覧の町に「富屋食堂」を開くまでになります。富屋食堂はやがて、太平洋戦争末期、帝国陸軍の指定食堂となり、食堂を切り盛りしていたトメさんは、いつしか隊員さんたちから『おかあさん』と呼ばれるようになります。 More ⇒ 『鳥濱トメの物語』へ |
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映画・ホタル |
映画・ホタル 2001年・1時間54分・配給/東映 監督/降旗康男 出演/高倉健、田中裕子 井川比佐志、奈良岡朋子、小林稔侍、 夏八木勲他。 特攻隊員の生き残り山岡秀治(高倉健)と腎臓病を患い余命いくばくもない 妻・知子(田中裕子)。昭和が終った年、 同じ特攻隊員の生き残り藤枝洋二 (井川比佐志)が青森の冬山で 遭難死します。 そして、特攻隊員を見送りつづけた 特攻の母・山本富子(奈良岡朋子、 鳥濱トメさんがそのモデル)が民宿を 引退することになりました。山岡は、 その富子から「自分に代わって韓国へ行ってほしい」と、かつての戦友であった 金山少尉(本名キム・ソンジェ)の遺品を 渡されます。 |
金山は妻知子の元許婚で、山岡と藤枝に 遺言を言い残して特攻に散っていった 朝鮮出身の兵士でした。 つらい頼みを背負わされた山岡は、 知子と共に金山の故郷、韓国・河回 (ハフェ)を訪ねます。 しかし、キムの生家一族は、 「ソンジェが日本のために死ぬはずが ない。なぜ、ソンジェが死んで、日本人の あなたが死ななかった」と、 悲痛な叫びでなじりますが、山岡は、 キム少尉が残した最後の言葉と、 出陣の前日に歌ったアリランを 一族の前でよみがえらせます。 『遺言!』、『トモ(知子)さん、私は 明日出撃します。ありがとう。 私はトモさんのお陰で本当に幸せでした。 私は必ず敵艦船を撃沈します。 しかし、大日本帝国のために死ぬ のではなく、私の家族、朝鮮の家族の ため、朝鮮民族の誇りをもって、 トモさんのために、出撃します。 |
朝鮮民族万歳。トモさん万歳。ありがとう。 幸せに生きてください。 私は永遠にトモさんのそばにおります。 トモさんは永遠です。さようなら。 キム・ソンジェ』 そして、 『アーリランアーリラン アラーリーヨー〜 |
新潟県出身の宮川三郎軍曹 (当時20才)は、出撃前夜、富屋食堂の 店主鳥濱トメさんに 『ホタルになって会いにきます』と言って、 1945年6月6日に出撃しました。 その日の夜、食堂にホタルが入ってきて、 トメさんや隊員たちを感激させたのです。 映画のタイトル『ホタル』は、 この悲話に由来しています。 特攻の母として慕われた鳥濱トメさんとともに暮らした娘・赤羽礼子さんの証言により、当時の場所に、『富屋食堂』が再現されました(写真右)。 |
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− 編集後記 − |
知覧特攻平和会館には、もう何回も訪れています。当時の特攻隊員と同じ年代の学生の時期に、家庭をもって子供ができた時期に、そしてその子らが特攻隊員と同じ年齢になった時期に、です。訪れるたびにいつも、その時期々の想いをもって、恒久平和を願わずにはいられません。 |
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