♪月光(ベートーヴェン)
Piano1001
島尾敏雄文学碑公園鹿児島県瀬戸内町
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作家・島尾敏雄(1917年〜1986年)は、第十八震洋隊の隊長として奄美諸島の加計呂麻島(かけろまじま)に赴任、呑ノ浦(のみのうら)に特攻基地を設営して待機中、特攻戦発動の命令を受けますが、発進の合図が出ないまま8月15日の終戦を迎え、九死に一生を得ます。絶対にさけられない運命と覚悟していた死からの生還。この特攻隊体験は、島尾敏雄の生涯と文学に決定的な影響を与え、凄絶なまでの愛の高みを祈り刻んだ代表作『死の棘』などの作品を生むことになります。第十八震洋隊特攻基地跡に作られた島尾敏雄文学碑公園を訪ねました。(旅した日 2009年08月)
    
    
か  け  ろ  ま じま
加計呂麻島
加計呂麻島の海(呑ノ浦はこの奥辺り)
    島尾敏雄について
 
1917年(大正6年)、横浜で出世。幼少の夏は父母の故郷・福島県相馬郡でよく過ごした。43年(昭和18年)九州大学(東洋史専攻)を繰り上げ卒業、海軍予備学生となり、翌年C艇特攻要員に任じられ、第18震洋隊指揮官として呑之浦に基地を設営、出撃(死)を待った。この状況のなか押角の大平ミホと結婚。伸三とマヤが生まれる。生涯引越しを続け旅のような人生であったが、55年(昭和30年)から75年(昭和50年)までの20年間、名瀬に
住んだ。凄絶なまでの愛の高みを祈り刻んだ『死の棘』などの小説のほか、詩、随筆、対談、歴史家としての眼での文化論、ヤポネシア論など出版されたものは多い。芸術院会員。第一回戦後文学賞、芸術選奨、日本文学大賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞、野間文学賞、多くの新聞社の賞など、著名な賞は殆ど受賞。新しく切り拓かれる大きな仕事への期待は、86年(昭和61年)11月、鹿児島市での突然の死によって絶たれた。今、福島県相馬郡に眠る。〜現地の案内碑より
島尾敏雄文学碑公園から見る呑ノ浦(写真下)

    
文学碑
島尾敏雄文学碑(写真上下)
             建立趣旨
  
この地呑之浦が島尾敏雄と廻り会ったのは、昭和十九年十一月、島尾は、第十八震洋隊隊員一八三名を率い、呑之浦の入江深く、基地設営のために上陸した。島尾は、震洋特攻隊長としていつ捨てるかも知れぬ命を背負い、死への準備にいそしむ日々を生きていた。押角国民学校に勤める大平ミホに出会ったのは、そんな戦争状態の中にあっても、時として訪れる平穏な一日であった。島尾の特攻出撃とともに、二人の青春はこの地に散るはずであったが、敗戦により思いがけない生を得た。
 
戦後、文学史上に残した島尾の仕事は、ここでの体験を抜きにしてはけっして語ることができない。三回忌を迎えたいま、島尾敏雄の業績をたたえ、それを記念するために、ゆかりに地呑之浦に文学碑を建立する。
 
   一九八八年十二月四日
      島尾敏雄文学碑建立実行委員会
島尾敏雄文学碑建立趣旨(写真上)
島尾ミホ書の銅板(写真上) 2008年制作の墓碑(写真下)
             墓碑
 
『島尾敏雄・ミホ・マヤ この地に眠る』と彫られた石塔の裏面にはつぎのようにあります。

 
この碑のなかには、島尾敏雄、ミホ夫人、長女マヤさんのお骨が納められています。呑之浦は、島尾隊長とミホさんにとっては出会いの場であり、恋愛の昇華とともに死を覚悟した聖地でありました。この地が、いま永遠のやすらぎの場となりました。
    2008年3月26日 墓碑制作実行委員会

 
1986年11月12日に69歳で島尾敏雄死去。それから20年間余、ミホ夫人は島尾の分骨を手元に置き、常に縁の広い黒い帽子の喪服姿で通したといわれます。2007年3月25日87歳で死去。長女マヤはミホ夫人に先立って2002年に52歳で亡くなっています。
呑ノ浦、遊歩道と入江(写真下)


震洋隊基地跡
第3艇隊壕と震洋艇のレプリカ(写真上)
震洋艇
震洋艇は、全長5m、横幅1mばかりの、ベニヤ張りのボートにトラックのエンジンを積み込んだもので、そのへさきに 230kgの炸薬(さくやく)を載せ、ただひとりの搭乗員もろとも敵の艦船に体当たりする特攻兵器でした。。震洋の由来は『太平洋を震撼(しんかん)させる』からといわれています。鹿児島県内では、呑ノ浦のほか、坊津、片浦、野間池、長崎鼻、喜入など18ヶ所、全国に114ヶ所、中国・台湾・フィリピンまで含めると、146ヶ所に基地が作られました。
震洋艇のイラスト(写真上)
     
     
 島尾敏雄  古仁屋〜加計呂麻島  ⇒ 安脚場戦跡
     
     
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