♪平均律第12番(バッハ)
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旅行記 ・大刀洗平和記念館を訪ねて − 福岡県筑前町  2010.08
大刀洗平和記念館
大刀洗平和記念館・正門(写真上)
大刀洗飛行場は第二次世界大戦当時、日本陸軍が東洋一と誇った航空戦略の拠点でした。また、特攻隊の中継基地として、数多くの若き特攻隊員たちの出撃を見送った場所でもありました。 
     『知覧教育隊之記念碑』より
  
大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊(当初分教所)は、昭和16年末知覧飛行場の完成を待って創立、先ず第10期少年飛行兵の教育を開始、以後、少年飛行兵、下士官学生、特別操縦見習仕官等が相次で入隊、猛烈な教育訓練の下、数多の飛行機操縦者が巣立った処である。然るに教育期間僅か2年9ヶ月にして戦局の推移と知覧飛行場の地理的戦略的関係により、昭和19年9月、町民の念願も空しく教育隊は解隊、その前後に隊員は京城を初め、内外の各教育隊に転属、後には飛行戦隊が駐留、昭和20年には遂に特攻の基地と化した。〜以下略  
『菊池武光太刀洗之碑』(写真上)
 
      大刀洗飛行場
  
南北朝時代、筑後川の戦いで勝利した
菊池武光が太刀を洗ったというこの戦跡の地に、陸軍の飛行場が設立されたのは大正8年(1919年)のことでした。以来、時局の移り変わりに応じて部隊、設備も逐次増強され、さらに幾多の変遷のなかで、基幹部隊である『飛行第四(聯)戦隊』から数多くの実戦部隊を編成して、満州・上海・支那事変において目覚ましい戦果をあげました。しかし、飛行第四戦隊の熊本県菊地飛行場への移駐に伴って『熊谷陸軍飛行学校大刀洗分教
カマボコ型をした大刀洗平和記念館(写真上) 
      
 零式艦上戦闘機三二型
旧日本海軍・零式艦上戦闘機三二型(世界で唯一の現存機)(写真上)
場』となり、 さらに『大刀洗陸軍飛行学校』、『第五航空教育隊』が新設されるなど、大刀洗飛行場は実戦部隊の飛行場から、次第に、教育的施設の色を濃くしていきました。そして、戦局の悪化のなかで、爆撃機『飛竜』の部隊による特攻が行われるなど、若い命が数多く大空に散っていくことになりました。昭和20年(1945年)、その存在に注目した米軍側の大空襲により壊滅的が打撃を受け、約27年におよぶ大刀洗飛行場の歴史は幕を閉じたのでした。 
 
零式艦上戦闘機三二型(写真上)
 大刀洗平和記念館
『大刀洗平和記念館』は、昭和62年(1987年)4月より甘木鉄道太刀洗駅の旧駅舎を利用して個人により開設・運営されてきましたが、平成21年(2009年)10月、新たに『筑前町立大刀洗平和記念館』として、国道500号線を挟んで旧館の向かい側に開館しました。
  
旧日本陸軍九七式戦闘機、旧日本海軍零式艦上戦闘機(いずれも世界唯一現存機)をはじめ、大戦中の資料約1800点が展示されています。※零式艦上戦闘機三二型のみ撮影可。
   零式艦上戦闘機・主計器盤(複製品)(写真上)
零式艦上戦闘機三二型の翼(写真上)
        
 九七戦闘機
旧日本陸軍・九七戦闘機(世界で唯一の現存機)(写真上)
   
 九七戦闘機 展示までの経緯
 
平成8年(1996年)9月10日、博多湾雁の巣鼻から南東約600m、水深3mの海底で発見、引き揚げられ、
旧陸軍九七式戦闘機と判明した。引き揚げ後、操縦席内にあった箸箱から搭乗者は、鳥取県淀江町出身の渡辺利廣陸軍少尉とわかった。渡辺少尉は、沖縄戦への特攻出撃を命じられ、旧満州公主嶺から鹿児島県の知覧飛行場に向かう途中、雁の巣沖に不時着。その後、同少尉は別の九七式戦闘機により知覧基地から沖縄に特攻出撃、戦死された。 
博多湾より引き揚げられる九七戦闘機(写真上)
この機体発見後、九州各地の戦争資料を展示する施設から引き取りの希望があったが、かつて東洋一の飛行場があった大刀洗飛行場ゆかりの地、甘木市、旧三輪町(筑前町)、大刀洗町の一市二町で復元、大刀洗平和記念館で保存、展示することとなった。
〜『太刀洗平和記念館』リーフレットより。
  
現在、『筑前町立大刀洗平和記念館』に展示されていますが、写真撮影禁止になっています。ここに掲載の三枚の写真は、渕上宗重氏(太刀洗レトロステーション館長)のご提供によります。
  引き揚げられた九七戦闘機(写真上) 
           
 太刀洗レトロステーション
太刀洗レトロステーション(写真上)
甘木鉄道太刀洗駅に隣接した旧駅舎を利用して私設の『太刀洗平和記念館』が開設したのは、1987年(昭和62年)4月のことでした。少年飛行兵の遺影や特攻隊員の遺書などが集められて展示、1997年(平成9年)8月3日には、博多湾より引き揚げられ解体修理された旧日本陸軍九七式戦闘機が展示公開されるなど、展示物は約2,000点に及んでいました。私的な地道な活動は行政によって引き継がれることになり、平成21年(2009年)10月、新たに『筑前町立大刀洗平和記念館』がオープンしました。
 
T-33ジェット練習機(写真上)
22年にわたる『太刀洗平和記念館』としての役目を終えた甘木鉄道太刀洗駅旧駅舎は、2009年10月3日新たに”未来への始発駅・『太刀洗レトロステーション』”として生まれ変わりました。館内には、昭和史を語る貴重な品々が展示され、また太刀洗駅の改札口、線路地下道やそれへの下り口などが戦時中のまま保存されていて、古きよき『昭和』時代の日常と非日常を同時に体感することができます。
  
右の写真で、茶色の瓦屋根の建物が旧駅舎で、緑色の建物は、九七式戦闘機を保管展示するために増設された建物です。
  無人駅となっている太刀洗駅。右の建物が旧駅舎(写真上) 
当時の駅の雰囲気を伝える展示物(写真上)
『別れの駅』太刀洗(写真上)
少年飛行兵の遺影は130枚にも及び、『身代わり観音』(写真右)を安置して、朝夕供養がされてきました。130枚の遺影は『筑前町立大刀洗平和記念館』へ移されましたが、『身代わり観音』はそのまま残され、現在も供養が続けられています。出撃兵士、そして見送る父や母、妻らは、下の写真の下り口から線路地下道へ下りて行きました。『別れの駅』太刀洗の説明板(写真上)が印象的でした。
汽車に乗る人は、上の写真の場所で改札を受け、右手に見える入口を潜って線路地下道へ下りて行きました。上の写真の右手に見える部屋は、九七式戦闘機を保管展示するために増設された部屋で、現在は『レトロカフェ』の喫茶室になっています。その他、美術品などの展示・即売コーナーも併設されています。
身代わり観音(写真上)
線路地下道への下り口(写真上)
分校であった知覧には資料館(知覧特攻平和会館)があるにもかかわらず、本校の大刀洗には何もなったことから、私設『大刀洗平和記念館』を開館され22年間運営されてきて、今は『太刀洗レトロステーション』の館長をされている渕上宗重さんは、1931年(昭和6年)生まれで、今年78歳になられます。約32年前、当地で建設業を営んでいた渕上さんは、偶然、旅行先の知覧で目にした『大刀洗陸軍飛行学校の分教所』の看板に衝撃を受け、『大刀洗平和記念館』の開設を思い立ちました。more
 
昭和の日常生活を偲ばせる展示物(写真上)
『太刀洗レトロステーション』に展示されているラジオやテレビ、映写機などは、今でも使えるそうです。実際に、昔の蓄音機のようなラッパ(スピーカー)の付いた真空管ラジオは、現在のラジオ放送を受信して音を出していましたし、1968年に発売された当時の日立のカラーテレビ『キドカラー』はカラーはカラーではっきり番組を映していました。また、渕上さんは、収蔵数10,000点、展示数2,000点の”音と光のアンティーク資料館『おんらく館』(音楽館)”を運営されています。
  初期の頃のラジオ、テレビや映写機などがたくさん展示されています(写真上) 
私設『大刀洗平和記念館』を開設・運営されてき、今は『太刀洗レトロステーション』館長の渕上宗重さん(写真上) 
       
 レポート ・大刀洗平和記念館のこと
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