比島全土で散華されたこれらの英霊は、フィリピン群島を望む日本列島の最南端花瀬崎の慰霊碑の中央、鉄兜直下に象徴遺骨として埋葬しその山門にあたる死生の扉(日本芸術院会員・中村晋也制作)を潜り慰霊碑に拝礼する形式になっている。
死生の扉は、比島戦線で殉職された兵士の御霊が不死鳥となり、比島から祖国日本へ飛翔し声鳴き凱旋をした姿を造形したもので、慰霊碑とともに1968年4月除幕式が行なわれた。 |
|
|
花瀬望比公園記念碑 |
|
|
花瀬望比公園・沿革(詳細)
太平洋戦争(1941年12月8日〜1944年8月15日)の激戦地フィリピン群島では、従軍兵の4分の3に相当する47万6千余柱が戦場の露と消え、そのうえ終戦後も兵士の死骸は草むす屍として山野に散乱していた。
九死に一生を得た戦友や遺族の心痛に応え、遺骨収集並びに慰霊碑建立期成会を結成、1966年11月遺骨収集団(団長ほか21名)は、鹿児島大学水産学部練習船敬天丸に乗船、遥々比島の古戦場に上陸、炎天下、比島各地の激戦を偲びつつ、山野の叢(くさむら)の中から、4,147柱の遺骨を収集した。
遺骨は広大な戦野に眠る戦友の御霊と一緒に現地で鎮魂の供養を行い、祖国日本の鹿児島港に帰還した。 |
|
安らぎ之鐘から見た園内と開聞岳 |
|
当日は県内外の遺族参列のもと開聞町並びに比島戦没者慰霊碑奉賛会の共催で第一回の慰霊祭が執行された。その後、毎年3月27日、慰霊祭が行なわれている。
1991年、花瀬望比公園整備実行委員会を組織し慰霊碑周辺整備事業により、鎮魂平和の大鐘楼、想比の母子像(中村晋也制作)を建立、献燈190基を整備し、この一帯を花瀬望比公園と呼称するようになった。
太平洋戦争終結50年記念事業として、望比観音及びおもかげの像(中村晋也制作)を建立し、世界平和と日本国の繁栄を記念し平和宣言を行なった。
殉国の英霊とこしえにここ花瀬の聖地に鎮まり、祖国の安泰と世界の恒久平和をお護り賜うことを乞い願うものであります。
1996年3月27日 開聞町長
(現地案内板より) |
|