特集/金吾さぁ  島津歳久の史跡を訪ねて − 目次(INDEX)  



目次(INDEX)
1.島津歳久の生涯(1) 生誕 〜 祁答院城主まで
2.島津歳久の生涯(2) 秀吉の九州征伐 〜 自害まで
3.島津歳久の生涯(3) 自害その後と日置島津家
4.島津歳久年賦
作成中)
5.亀丸城跡 − 鹿児島県日置市吹上作成中)
6.大乗寺跡と日置南洲窯 − 鹿児島県日置市日吉
7.平松神社(心岳寺跡) − 鹿児島市吉野作成中)
8.松尾城跡 − 鹿児島市吉田
作成中)
9.大石神社 − 鹿児島県さつま町作成中)
10.金吾様踊り − 鹿児島県さつま町

11.金吾様踊りの風景 − 鹿児島県さつま町
12.金吾様踊りの風景’09 − 鹿児島県さつま町
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13.『金吾様踊り活性化実行委員会』の取組み
作成中)
14.京都浄福寺訪問記
15.赤山靭負〜島津歳久の末裔たち(1) 
16.梅君ヶ城跡 − 鹿児島県さつま町鶴田

関白(天皇に代って政治を行う職)の宣下を受け、名実ともに天下人となった豊臣秀吉の軍を巧みに険相な山道に案内し、秀吉の駕籠に矢を射かけ、秀吉の九州征伐後も、死ぬまで秀吉に徹底して反骨を見せた島津の名将がいたことをご存知でしょうか。
 
その名を、島津歳久(しまづ・としひさ)といいます。第15代守護職・島津貴久の三男で、本ホームページの管理者(以下、著者と呼びます)が住む鹿児島県薩摩郡さつま町全域一帯(当時の祁答院)の領主だった武将でした。役職名が左衛門尉(さえもんのじょう)で、その唐名(日本の官職を唐制の呼び名に当てたもの)を金吾といったことから、地元では『金吾様』(きんごさぁ)と呼ばれ、親しまれてきました。文禄元年(1592年)、ついに秀吉の怒りを買い、秀吉の命によって兄・義久の追討を受け、竜ヶ水(鹿児島市吉野町)で自害、享年56歳でした。
 
歳久公の史跡・遺跡として、神社が15箇所、供養塔が14箇所、墓・墓跡が8箇所、位牌が6基確認されています。歳久公の人気が地元でどれほど絶大なものだったかを、その史跡・遺跡の多さが如実に物語っています。しかし、それらの史跡・遺跡を訪ね歩いてみると、荒廃し、その歴史の風化が進んでいることを実感するばかりです。この特集は、島津歳久公のゆかりの史跡を訪ね、その風景を写真に収め、ここにまとめて記録しておこうとするものです。
 
島津歳久公
 
島津歳久公は、島津家中興の祖として知られる第15代薩摩国守護職島津貴久(たかひさ)公の三男として、天文6年7月10日(1537年8月25日)、伊作(鹿児島県日置市吹上町)の亀丸丸城に生まれました。長兄に、のちに16代となった義久公、次兄に17代となった義弘公が、異母弟に家久がいました。少年時代は、それらの兄とともに、伊集院で過ごしました。『日新公いろは歌』で知られる祖父・忠良公は、4人の孫を評して『いずれも知勇兼備の名将』とたたえ、特に歳久公は『終始の利害を察するの智計に並ぶ者なし』と評しています。
 
歳久公は天文23年(1554年)、弱冠18歳で大隅国岩剣城(いわつるぎじょう)の合戦で初陣を飾り、次いで大隅合戦に勝利を収め、26歳の永禄5年(1562年)、吉田(現在の鹿児島市吉田、佐多浦、本城、本名、宮之浦)を賜って、松尾城を居城としました。
 
島津方では北薩からさらに日向へ勢力範囲を拡大せんと合戦を展開、各地で勝利を収め、歳久公も島津方の重鎮として、太守義久公、義弘公をよく補佐、各地の攻城野戦で軍攻の一たんを担いました。天正8年(1580年)、吉田から祁答院へ移封となり、その地をよく治め、中薩における島津方の要(かなめ)となりました。歳久公44歳の時でした。
 
そのとき、歳久公の所領は、現在の薩摩郡さつま町全域一帯で、佐志、時吉、湯田、船木、虎居、平川、久富木、鶴田、紫尾、柏原、求名(ぐみょう)、中津川など一万七千余石の地に及びました。歳久公はまた、軍務のかたわら、和歌や茶の湯、犬追物(いぬおうもの)などを嗜(たしな)み、天正3年(1575年)には、上洛して歌道を伝習しています。
 
やがて、天正20年(1592年)、太閤秀吉は朝鮮征伐、いわゆる『文禄の役』を行ないますが、歳久公が病気を理由に秀吉の出陣の命に従わないばかりか、湯之尾の地頭、梅北国兼が太閤秀吉に謀叛(むほん)を起こして挙兵した『梅北一揆』の反乱軍の中に歳久公の家臣が多かったことを聞くに及び激怒し、太守義久公に『直ちに歳久の首をはねて差し出せ』と厳命したのでした。
 
いかに戦国の世とはいいながら、兄が弟に兵を派遣して自刃をせまるという、まことに悲運な終末でしたが、歳久公は『太守に対し矢を放つにあらず、君臣武勇の本分をもって暫時の戦いを励むものなり』の名言を残して自刃して果てました。同時に家臣27名が後を追って殉死。天正20年7月18日(1592年8月25日)、歳久公56歳のことでした。
 
義久公は太閤秀吉の没直後の慶長4年(1599年)、歳久公自刃の地に『曹洞宗滝水山心岳寺』を建立し、菩提を弔いました。明治2年(1869年)の『廃仏毀釈』により心岳寺は廃寺となり、明治3年その跡に歳久公を御祭神とする郷社『平松神社』が建立され、今日に至っています。
 
往時の頃の祥月命日には、歳久公の御遺徳と壮烈なる御最後を偲んで、鹿児島三大詣りの一つとして『心岳寺詣り』が盛大に行なわれたといわれます。武勇、安産、商売繁盛を願って参拝者が夜を徹して続き、数万に及ぶ人出のにぎわいだったそうです。鉄道では、『平松駅』が臨時に設置され、海上では、『垂水丸』が鹿児島と平松間を往復したといわれます。
 
また、地方においては、歳久公ゆかりの地さつま町中津川で、現在でも毎年『金吾様祭り』が盛大に行なわれています。〔参考文献〕島津久欣、『島津金吾歳久公四百年祭志』(平成7年11月発行)祭文



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