特集/金吾さぁ  島津歳久の生涯(3) 自害その後と日置島津家  



島津歳久の生涯(3) 自害その後と日置島津家



1.歳久自刃
天正20年7月18日(1592年8月25日)に自刃した歳久の遺骸は重富の現在御石山がある所で清められたあと、帖佐の総禅寺に葬られ、御霊屋(おたまや)を島津家の菩提寺である福昌寺(鹿児島市坂之上町)に建て、ひそかに四十九日の祭りをして、『心岳良空』(しんがくりょうく)というおくり名をしました。位牌は、福昌寺の月香院(げっこういん)に安置されたされたそうです。
平松神社(心岳寺跡)の前景
手前に、JR日豊線の線路が見えます(写真左)。
 
 
2.心岳寺建立そして平松神社へ
秀吉の亡き直後の慶長4年(1599年)に、歳久自刃の地に島津義久によって建立された菩提寺(曹洞宗)が心岳寺です。
 
寺の名前は歳久の戒名に由来します。寺は明治2年(1869年)の廃仏毀釈で廃絶し、平松神社となって現在に至っています。慶長11年(1606年)には、心岳寺内の歳久が自刃したその場所に石塔が建てられました。
 
平松神社、島津歳久墓地
向こうに殉死者27名の墓地が見えます(写真右)。
 
往時の頃の祥月命日には、歳久公の御遺徳と壮烈なる御最後を偲んで、鹿児島三大詣りの一つとして『心岳寺詣り』が盛大に行なわれたといわれます。武勇、安産、商売繁盛を願って参拝者が夜を徹して続き、数万に及ぶ人出のにぎわいだったそうです。鉄道では、『平松駅』が臨時に設置され、海上では、『垂水丸』が鹿児島と平松間を往復したといわれます。
 
また、安政5年(1858年)の『安政の大獄』で追いつめられた西郷隆盛と僧月照が小舟から鹿児島湾に身投げした際、西郷は月照に歳久の話しをし、心岳寺の方に一排を求めた上で飛び込んだそうです。
 
3.歳久の遺体
歳久の首は、肥前名護屋城の秀吉のもとに届けられ首実験をされ、さらに、京都の聚楽第(じゅらくだい)に送られて、条戻橋にさらされたといわれます。ここは、昔から、強盗などをした罪人の首をさらす場所だったそうです。歳久がさらし首になっていた時期に、歳久の従兄弟(いとこ)に当たる島津忠長がちょうど京都にいて、大徳寺の玉仲(ぎょくちゅう)和尚と図って、市来家家臣に盗みとらせ、京都浄福寺に埋葬し、浄石塔が建てられました。そして、歳久の末裔に当たる日置島津家14代島津久明(照国神社の4代宮司)が、明治5年(1872年)に京都にのぼり、その首を鹿児島に持ち帰り、一方帖佐の総禅寺に埋葬してあった胴体も掘り起こし、それと一体にして、平松神社(心岳寺)に改葬したそうです。二百数十年経って、ようやく首と胴体が一緒に埋葬されるに至ったわけです。さらに、大正の終わりか昭和の初め頃に、日置島津家の菩提寺だった大乗寺跡に改葬されたそうです。
    

一条戻橋
1592年、鹿児島市吉野の竜ヶ水から肥前名護屋城、そして京都聚楽第に送られた歳久の首がさらされた橋。それより一年前の1591年、秀吉の勘気に触れ切腹を命じられた茶人・千利休の首がさらされたことでも知られています。太平記、剣の巻によれば、深夜こ橋の東詰で容貌美しい女子にやつした鬼女に出合ったというという伝説があったとか。それらしい雰囲気に柳が植えられていました。
京都市上京区の、堀川に架けられている一条通の橋が一条戻橋(写真左)。
      
浄福寺
歳久の首が明治5年(1872年)まで、280年にわたって埋葬されていた浄福寺。なるほど、この寺は、一条戻橋から一条通りをわずか500m西に走れば行き着くところにありますから、盗み取った首を埋葬するには絶好の場所にあったということでしょうか。幕末期、薩摩藩邸で収容しきれなかった藩士が一時期滞在したことのある寺でもあります。
京都市上京区にある浄福寺は、広い境内に幼稚園もある天台宗のお寺。観光寺院ではない本来の京都らしさが感じられる寺。赤門寺と呼ばれる(写真右)。
  
御石山(おいしやま)
JR日豊線の重富駅より国道10号線を越えて海岸側へ約300mのところにあります。車を近くに駐車して歩き回りやっと探しあてました。歳久が自害した平松神社より約5km、国道10号線を北上した位置にあり、歳久の遺体はここで清められ、首は肥前名護屋城の秀吉のもとに届けられ、胴体は帖佐の総禅寺に葬られました。お石山とは、歳久が『お石様』とも呼ばれていることによると思われます。姶良町史跡。
重富駅の約300mのところにある御石山(写真左)。
  
総禅寺跡の歳久墓所跡
帖佐小学校裏の総禅寺(豊州島津家の島津季久の建立)跡は、いまは広大な民間の墓地になっていて、墓参に来ている人に聞き回って奥まったところの草やぶにやっと歳久墓所跡を見つけました。『島津金吾歳久胴体埋葬地跡』という比較的新しい御影石が立っているのを見つけました。『平成四年八月十八日 島津金吾歳久公四百年祭顕彰会』と銘が刻んでありました。
総禅寺跡の『島津金吾歳久公四百年祭顕彰会』の碑(写真左)。
 
その奥の方へ草をかき分けて進むと、のアーチ型の石門と、由来文を彫り込んだ墓標がありました。明治5年(1872年)に掘り起こされて平松神社に改葬されるまでの二百数十年間、胴体が埋葬されていた場所であり、以後は墓所跡ということになったわけです。


四百年祭顕彰会の碑は、比較的新しいけど、墓所跡の石門や墓標にははやり、時の流れ、歴史の風化を感じずにはおれません。
総禅寺跡の島津歳久墓所跡(写真左)
 
 
4.島津常久と日置島津家

島津常久(しまづつねひさ、1587年〜1614年) 江戸時代初頭の薩摩藩家老の一人。日置島津家の第3代当主とされる。父は薩州家出身の島津忠隣(ただちか)、母は島津歳久の長女。つまり、島津歳久の外孫


誕生してわずか3ヶ月後の天正15年4月17日(1587年5月24日)の根白坂の合戦で父・忠隣が戦死。残された常久は祖父・歳久の手によって養育されました。ところが、その歳久も天正20年7月18日(1592年8月25日)、豊臣秀吉の命により自害に追い込まれてしまうと、歳久夫人と歳久長女はこの処分を不服とし、常久を擁して祁答院虎居城(現鹿児島県さつま町宮之城)に籠城しました。この事態を重く見た細川幽斎と島津義久は新納忠元を使者としてつかわすなど説得を行い、1ヶ月の籠城の末、常久成人の際に旧領を回復するとの条件で開城に至りました。


成人後、日置領9000石余(現日置市日吉地域北部)を賜り(その南隣には、小松帯刀の吉利領2600石がありました)、島津義久、島津忠恒の信任厚い家臣として活躍。義久の代理としてしばしば江戸で人質役も務めています。これらの功績に対し、鹿児島城の詰めの城である『上之山城』の城主に任命されるが、慶長19年、疱瘡(天然痘)により急逝。享年28。祖父・父の敵と言える豊臣氏の滅亡を目前にして、あまりにも早すぎる最期でした。(この項、フリー百科事典『ウィキペディア』より転載)


従って、島津歳久が日置島津家の初代当主とされ、歳久の長女の夫・忠隣が第2代、その子(歳久の外孫)の常久が第3代当主とされています。

  
大乗寺跡
大乗寺は、第15代守護職・島津貴久公の夫人雪窓(ゆきまど)によって、日置市日吉町に建立されたもので、開山は一岳等忍和尚です。文禄4年(1595年)、島津常久は、初代歳久の冥福を祈るため、ここを日置島津家の菩提寺にしたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈の難に遭い廃寺となりました。左右に仁王像を見て石段を上がると正面手前に初代歳久の墓があり、その左右や背後に歴代領主の墓が並んでいます。
道路から大乗寺跡へ上る石段に立ててある『史跡 大乗寺跡』の標識(写真左)。
  
歳久の墓
明治5年(1872年)、京都浄福寺に埋葬されていた首と、帖佐の総禅寺に埋葬してあった胴体が一体となって平松神社に改葬されたあと、大正の終わりか昭和の初め頃に、大乗寺跡に改葬され、現在に至っています。歳久の墓前にある石で刻んだ竜の手洗鉢は藤原久辰(赤山家祖)が1737年寄進したもので、のみ一本で作り上げてあります。そのほかにも、2〜3の墓石に刻まれた紋様は彫が深く曲線の流れが美しいものです。
最終的に歳久公は、胴体と首が一体でこの墓に埋葬されています(写真右)。
 
 
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