特集/金吾さぁ  島津歳久の生涯(1) 生誕〜祁答院城主まで  



島津歳久の生涯(1) 生誕〜祁答院城主まで



1.島津歳久誕生
島津歳久(しまづ・としひさ)は、天文6年7月10日(1537年8月25日)、伊作(現在の鹿児島県日置市吹上町)の亀丸丸城に生まれます。父は島津宗家の養子になって15代守護職を継いだ島津貴久公。母は入来院重聡(いりきいん・しげさと)の娘で、雪窓(ゆきまど)夫人。長兄は後に16代となった義久公、次兄は17代になった義弘公で、異母弟に家久(母は肘岡氏の娘)がいます。天正20年7月18日(1592年8月25日)、竜ヶ水(鹿児島市吉野町)で自害して、56歳で亡くなりました。


島津貴久と子の島津4兄弟の人格を考える上で重要なのは、『日新公いろは歌』で知られる祖父・島津忠良(日新公)の影響を受けている点だといわれます。日新公は、歳久を『終始の利害を察するの智計に並ぶものなし』とたたえています。

亀丸城跡
約700年前の文永8年(1271年)頃、伊作島津家初代久長が築城したと伝えられます。本丸である亀丸城以外にも、東に蔵之城、東之城、西に西之城、花見城があり、いずれも空濠(からぼり)によってへだてられていました。10代忠良(日新公)に至る250年間の伊作島津家の居城で、この間、薩摩藩にとって重要な人物とされる、忠良、忠将、義久、義弘、歳久、家久などが生誕した城でした。
亀丸城址之碑(手前)の向こうに、島津4兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の誕生石が見えます(写真左)。




2.島津氏三州統一へ
島津氏は、初代忠久以来、10代忠国までの間に、越前、伊作、奥州、薩州、総州、相州、豊州の各島津庶流のほか、伊集院、樺山、川上、北郷、新納、町田、山田、和泉、喜入、佐多氏らの一族庶家を創出しましたが、その島津一族間に内紛が絶えず、また在地領主との軋轢(あつれき)も加わって、戦国時代(16世紀初期〜中期)の薩摩、大隈、日向の三州は、対立と分裂に明け暮れる状況でした。


島津本宗家は、第14代当主・島津勝久のとき、勝久が若年のため弱体化していました。そこで、勝久は伊作家当主の島津忠良(日新公)を頼り、大永6年(1526年)、忠良の長男・島津貴久が勝久の養子となり、第15代当主として家督を継承、島津本家再興と三州の統一に着手します。


当時、伊作島津氏が直接統治できたのは薩摩半島の伊作、田布施、阿多などが主でしたが、貴久は守護として忠良とともに、伊集院へ進出。一方、加世田で薩州島津家を伐(う)って、南薩をかため、居城を伊作から伊集院に移し、さらに鹿児島に進出しました。


当時の守護島津氏の与党には、飫肥(おび)の豊州島津家、都城島津家の北郷氏、隼人の樺山氏らがおり、これに対して、東郷、入来院、祁答院(けいどういん)の渋谷三氏が蒲生(かもう)氏、菱刈氏と連合して、反島津勢力を形成していました。鹿児島進出からさらに大隅西部に勢力を伸ばそうとする貴久、忠良の島津方は、それらの反島津勢力と衝突することになります。




3.岩剣城の合戦
天文23年(1554年)、祁答院(けどういん)良重の住む大隅岩剣城(いわつるぎじょう)における合戦が、祁答院・蒲生連合軍との合戦の緒戦となり、義久、義弘、歳久兄弟もこの合戦で初陣を果たします。歳久18歳のときでした。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞で、戦いは激戦となりましたが、ついに落城。良重主従は、岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院に逃げ帰ります。


岩剣城跡
写真に見えるたんこぶのように切り立った岩山が、祁答院良重が築城したと言われる岩剣(いわつるぎ)城。三方が絶壁となっており、南側のみ山続きとなっている戦国時代の代表的な要害の城です。岩剣城の険阻な様子をみた日新公は、『三兄弟のうちの誰かが死なねば落ちまい』と語ったと伝えられています。岩剣城の合戦は、日本歴史上初めて実戦で鉄砲(種子島銃)を使用した合戦だったといわれます。

平松城跡(重富小学校)前の道路から民家越しに見る岩剣城跡(写真左)。


平松城跡(重富小学校)
岩剣城の合戦が終止符を打つと、島津貴久は、この合戦で初陣を飾った次男義弘を岩剣城の城主としました。 しかしながら、岩剣城は急峻で麓から山頂までの道は大変険しく、日常生活に不便だったので、義弘公は麓に館を築きました。これが平松城の始まりでした。義弘公は、関ヶ原の合戦直後にもしばらく在城し、加治木へ移るまでの居館としました。その後は、島津義弘夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしたといわれます。今は、重富小学校になっています。重富小学校前に立てられた平松城跡の杭(写真右)




4.蒲生合戦の終焉と歳久吉田城主へ
翌年、歳久18歳のとき、大隅蒲生北村城の合戦で謀略にかかり、いったん島津勢は敗れ、歳久も重傷を負いますが、歳久22歳のとき、蒲生本城落城によって蒲生合戦がほぼ終了。歳久26歳のとき、吉田の城主を命じられ、現在の鹿児島市吉田、佐多浦、本城、本名、宮之浦を任されました。歳久は、44歳になるまでの18年間吉田城(松尾城)に居住し、その後は56歳でなくなるまでの12年間を祁答院で過ごすことになります。


松尾城跡
松尾城(吉田城)は大規模な連郭型城郭で、吉田氏累代の居城でした。永正14年(1517年)14代吉田位清(これきよ)のとき島津忠隆(島津氏第13代当主)と戦って破れ献城。後の永禄5年(1562年)、島津歳久が吉田の封(ほう)を受け居城とする。天正8年(1580年)祁答院に移封され、以後藩の直轄となりました。吉田の士民は歳久の遺徳を募い、その壮烈なる最後を偲んでこの地に招魂碑を建てました。
『島津歳久公招魂碑』(手前)と背後に見える切り立った要害の崖(写真右)。


蒲生城跡
豊前国宇佐郡から蒲生院にくだった藤原舜清(ちかきよ)が蒲生・吉田を領し居城とした山城。東に建昌、帖佐城、西に北村城、南に吉田、岩剣城、北に山田・松坂城等七支城を備え、難攻の呼び名高き堅城でした。島津貴久による『三州平定』において、蒲生家17代範清(のりきよ)が城に火を放ち祁答院良重の城(虎居城)へのがれるまで、実に435年間の居城でした。
城跡内にある桜公園から眺める本丸跡。前方に盛り上がって見えるのが本丸跡です(写真左)。



5.歳久、祁答院へ
姶良地方より撤退して祁答院の虎居(とらい)城に拠(よ)った祁答院良重は、なお入来院氏、東郷氏らの渋谷一族と結んで強勢を保っていましたが、永禄9年(1566年)の正月に、妻(薩州島津の出で、島津義虎の娘)によってあえなく暗殺されてしまうという事件が起き、それから急速に、祁答院氏の勢力も衰退。元亀元年(1570年)、ついに入来院、東郷などの渋谷一族もこぞって島津方に帰順することになりました。


そして、天正8年(1580年)、歳久44歳のとき、祁答院(現在のさつま町の佐志、湯田、時吉、虎居、平川、船木、久富木、鶴田、紫尾、柏原、求名(ぐみょう)、中津川など)一万七千三百余石の領主を任されます。歳久は、この地をよく治めながら、三州統一や九州制圧において重要な役割を果たすして行きます。


宮之城     
歳久が領した祁答院は、宮之城町、薩摩町、鶴田町の三町からなっていましたが、平成17年(2005年)3月に合併してさつま町へ。周囲を山々に囲まれた盆地で、面積は303.43ku、人口2万6千人弱の町です。その中心地が宮之城(みやのじょう)。文禄4年(1595年)、都城(宮崎県都城市)から祁答院へ移封された北郷時久が、都城を偲んで宮之城と名づけたのが地名の起こりになっています。
歳久の治めた祁答院(現さつま町全域)の中心地・宮之城の遠景(写真左)。


虎居城跡
上の宮之城遠景の写真で、左端に小さく見える青色の屋根の建物が、虎居城跡地に建てられた県立薩摩中央高校です。その虎居城跡地を北西の位置から見たのが右の写真です。東西と北を、丁度180度湾曲した川内川(せんだいがわ)によって隔てられた天然の要塞でした。平安時代からこの地方に勢力を持っていた大前(おおまえ)氏が築城、その様子が虎の伏した姿に似ているということで虎居城と命名されたといわれます。
虎居城跡と天然の濠・川内川(写真右)。
写真は、入来院貞子氏提供。


さつま町へのアクセス     


九州自動車道
  人吉ICより車で約1時間
  横川ICより車で約35分
  姶良ICより車で約40分
鹿児島空港より約45分
鹿児島市より車で約1時間
出水市より車で約40分
薩摩川内市より車で約35分
鹿児島県薩摩郡さつま町への
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