特集/金吾さぁ  ・赤山靭負〜島津歳久の末裔たち(1)   
− 赤山靭負(あかやま・ゆきえ) −
関白(天皇に代って政治を行う職)の宣下を受け、名実ともに天下人となった豊臣秀吉の軍を北薩摩の険相な山道に巧みに案内し、秀吉の駕籠に矢を射かけ、秀吉の九州征伐後も反骨を見せた名将・島津歳久は、ついに秀吉の怒りを買い、秀吉の命によって兄・義久の追討を受け、自害して果てます。その島津歳久の末裔に、西郷隆盛のどの伝記にも必ず登場する赤山靱負(あかやま・ゆきえ)という人がありました。
 
島津歳久を初代とし、あの小松帯刀の吉利領2600石の北隣に9000石余を領したのが日置島津家でした。一所持格(21家、私領主)の中でも特別な存在で、一門家(4家、私領主)に次ぐ『大身分』の扱いとされ、家老職に就く者を多く輩出しました。
 
赤山靱負は、日置島津家12代当主島津久風(ひさかぜ)の次男で、長兄に第12代薩摩藩主島津忠義の主席家老を勤めた島津久徴(ひさなる)が、弟に西郷隆盛と親交を結び、西南戦争で戦死した桂久武(かつら・ひさたけ)がいます。
 
日置島津家の庶流である赤山家の養子になった靱負は、物頭兼鑓奉の職を勤めますが、島津斉彬の藩主襲封を願う一派の中心人物であったため、お由羅騒動で切腹を命ぜられ、嘉永3年3月4日(1850年4月15日)自決して果てます。享年28歳。その遺志は、西郷隆盛に引き継がれたといわれます。
 
赤山靭負自決の介錯をしたのが、当時家政上の世話をする御用人として赤山家に出入りしていた西郷吉之助(隆盛)の父・西郷吉兵衛たったといわれます(靭負の遺言を聞き、臨終を見届けて一切の処置をとったものの、介錯をしたのは、剣豪家加藤新平だったという説もあります)。吉兵衛は血痕に染まった赤山の片袖を自分の家に持ち帰り、その悲壮なる死を家人に語ります。
 
このとき、24歳だった吉之助は鮮血の袖を拝して号泣し、その夜、終夜その袖を抱いて泣きながら過ごしました。西郷吉之助が天下の志をたてたのは、実にこのときだったといわれます。
 
赤山靭負の(鹿児島県日置市日吉町日置)
 
日置島津家初代島津歳久や12代島津久風の墓がある大乗寺跡(日置島津家の菩提寺跡)から1km余のところに、桂山寺跡があります。男子のなかった歳久は、薩州家出身の島津忠隣(ただちか)を長女の婿養子としますが、忠隣は、豊臣秀吉の九州征伐における根白坂の合戦(現・宮崎県木城町)で享年19で戦死してしまいます。桂山寺跡は、島津忠隣の菩提寺だったところで、その西の山かげに赤山靭負は眠っています。
 

桂山寺跡から見る日置の風景(1km余先に大乗寺跡があります。)
 
【参考にしたサイト】
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の『赤山靱負』と『西郷吉兵衛』のページを参考にしました。
 

  2008.12.09 
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