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小倉処平の史跡を訪ねて − 宮崎県 |
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江藤淳は、著書『南洲残影』(文藝春秋社、)でいわく、西南戦争における官軍と薩軍の対決は、決して開明派と土着派の対決などという、単純な図式で割り切れるものではあり得なかった。西洋をよく知りながら西郷の軍に投じた者もいたのであると。英国・フランスに学び、同郷の後輩小村寿太郎の目を世界に向かせ、大きな影響を与えた『飫肥の西郷』・小倉処平(おぐらしょへい)もその一人でした。小倉処平由来の史跡を、宮崎県日南市飫肥(おび)と宮崎県延岡市に訪ねました。『レポート ・小倉処平 〜 西南戦争人物伝(2)』と共にご覧下さい。 (旅した日 2007年11月) |
飫肥(おび) |
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飫肥藩校・振徳堂(しんとくどう) |
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小倉処平(おくらしょへい) |
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写真は、飫肥藩校・振徳堂の敷地内に建てられている『小倉処平顕彰之碑』 |
西郷宿陣と可愛岳(えのだけ) |
8月15日、『和田越の決戦』(現宮崎県延岡市)に敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置き、翌16日に西郷隆盛は解軍の令を出し、可愛岳(えのだけ)突囲(包囲を突破すること)を決意します。17日夜10時、精鋭約600名が登山を開始。写真は、児玉熊四郎宅。その背後に見えるのが可愛岳。 |
小倉処平 加療・自刃の地 |
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