旅行記  ・飫肥(おび)〜油津 − 宮崎県日南市  


2004年の正月の、雲一つない抜けるような青空の晴天の日、車を飛ばして日南市の飫肥(おび)〜油津(あぶらつ)に出かけました。宮崎市内から、日南海岸にそって国道220号を約40km南下すれば、日南市の市街地に着きますが、今回は宮崎自動車道を田野ICで降りて、飫肥杉山林が眺望できる県道を利用しました。日南市は人口約45,000人の市で、飫肥は市街の北西のはずれに位置し、油津は市街の南東に位置する港町です。飫肥は、かっては日向の地頭だった伊東氏5万1000余石の居城のあった城下町です。現在も飫肥城を中心に武家屋敷、石垣、庭園などの史跡や商家造りの建物などが当時の面影をとどめていて、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。かって飫肥杉の積み出し港であり、港町、商人町として昔から栄えてきた油津には、いつかどかで見たような懐かしい思いに駆られる堀川運河、そしてその運河の周辺には、マグロ漁の道具倉庫として、また漁師たちの宿泊所として利用された赤レンガや色壁の倉庫の通りが残っています。                              (旅した日 2004年1月)

飫肥城(おびじょう)
飫肥城は、1588年に伊東祐兵(すけたけ)が入城して以来、明治初期まで280年間、伊東氏の居城でした。大手門は1978(昭和53)年に、樹齢百年の飫肥杉を使用し、釘を使わない「組み式」で復元されました(写真左上)。城跡の敷地内には、「歴史資料館」「松尾の丸」があります。本丸跡は、鬱蒼(うっそう)とした杉林になっています(写真右下)。
豫章館(よしょうかん)の佇まい
豫章館は、明治2年、飫肥藩主・伊東祐帰(すけより)が知事に任ぜられて、城内より移り住んだ屋敷。邸内にあった数百年を経た大楠にちなんで豫章館(よしょうかん)と名づけられました。邸内には、竹林があって(写真左上)、木々はまだ紅葉を残していました(写真左下)。門には、古式ゆかしい門松が置いてありました。割った薪を束ねたものを3つ、櫓(やぐら)を組むように置き、その上に松や南天が飾ってあります(写真右)。
小村寿太郎
小村寿太郎(1855〜1911年)
飫肥出身。外務大臣。ポーツマス条約の全権大使。


長州・薩摩・土佐出身者が要職を占める中で、5万千余石の小藩の出身という藩閥外のため苦労をしますが、陸奥宗光に見い出され政治の表舞台へ登場。日露戦争において日本は、比類ない完勝を得ますが、国力の劣る日本は、もはや戦争を継続する力はなく、何が何でも講話に持ち込まざるを得ない実状にありました。目がくぼみ、頬がこけネズミを連想させる身長143cmの子男、小村寿太郎はギリギリの限界までねばり強く国益を主張して、ポーツマス条約(1905年)を締結させます。帰国する小村を待っていたのはやはり、多額の賠償金と領土の獲得ができて当たり前と思っていた日本国民の憤慨でした。騒擾事件や焼き討ちが相次ぎ、小村は、ホテル住まいで家族との別居を余儀なくされる状態でした。桂内閣の総辞職にともない政治を引退したわずか3カ月後に、享年57歳で死去しました。
小村寿太郎胸像(写真左上)と国際交流センター小村記念館(写真右上)。裏手の武家屋敷通りの民家に生っているのは『日向夏』でしょうか(写真左下)。日向夏は、外皮と果肉の間の白皮肉も食べるのが特徴です。
堀川運河
堀川と石橋『堀川橋』
山間部から伐り出される飫肥杉の集荷、移出のために2年の歳月をかけて飫肥藩時代の1686年に完成した運河が堀川です。日南市を流れる広瀬川の下流から油津港まで全長900mの距離があります。その運河にかかる眼鏡橋が「堀川橋」(通称、乙女橋)です。いつかどかで見たような懐かしい風景です。この石橋のあたりは、映画「男はつらいよ」の第45作目のロケ地になりました。


映画『男はつらいよ−寅次郎の青春』(1992年12月公開)
旅する寅さんは油津に足をとめ、堀川橋のそばで理髪店を経営するマドンナ・富永蝶子(風吹ジユン)と知り合い、居候(いそうろう)生活を始めます。


堀川橋の右手に見える三角屋根の白い建物が、寅さんと蝶子が出会う喫茶店「いづや」、橋の左手に見える4つ窓の白い二階建の家が寅さんが居候する蝶子の理髪店
運河・堀川とそれにかかる「堀川橋」(写真上)。堀川橋のすぐそばにある吾平津(あひらつ)神社(写真下)。神社前には、「男はつらいよ」のロケ地を示す案内板が置かれています。
赤レンガ館
港町、商人町として昔から栄えてきた油津には、レンガ倉庫や商家など大正時代の建物が残っています。合名会社油津赤レンガ館(写真左上)は、昔から残っていたレンガ倉庫を地元街づくりに活用していくために、有志31名が資金を出し合って設立した会社で、保存のための活動が行われています。杉村金物本店主家(写真左下)および杉村金物本店倉庫(写真右)と共に、これら3つの建物は、平成10年、文化庁の登録有形文化財に登録されました。
飫肥杉とおび天
飫肥杉
宮崎自動車道を田野ICで降りて、飫肥に向かう途中の南那珂地域一帯は、見渡す限り杉の山林が続きます。飫肥の林業は、飫肥藩の家臣達が、藩財政の窮乏を救済するため、江戸時代の初めの1623年、山林原野に杉を植林したのが始まりと言われています。飫肥杉は、樹脂分が多く耐久性に優れていること等から、かっては弁甲材(造船用材)として瀬戸内地方や韓国に出荷されていたそうです。現在では、建築用材を目的として育てられています。


おび天
飫肥地方に江戸時代から伝わる薩摩揚げに似た揚げ物です。アジやトビウオなど、季節の魚のすり身に黒砂糖などを加えて、木の葉の形に揚げた独特の天ぷらです。色は薩摩揚げよりやや黒いですが、味はあっさりしていて違います。飫肥城を訪れて昼食をとるときの定番がこの『おび天』です。
日本一の杉景観といわれる南那珂地域の飫肥杉山林の眺望。約1,000ヘクタールの山林が広がっています。



【備考】
◆説明文は、一部日南市ホームページを参考にしました。日南市ホームページのアドレスは、以下の通りです。
  → http://www.city-nichinan.jp/