レポート  ・小倉処平 〜 西南戦争人物伝(2)   
− 小倉処平 〜 西南戦争人物伝(2) −
江藤淳は、著書『南洲残影』でいわく、西南戦争における官軍と薩軍の対決は、決して開明派と土着派の対決などという、単純な図式で割り切れるものではあり得なかった。西洋をよく知りながら西郷の軍に投じた者もいたのであると。
 
その筆頭として先に、村田新八についてレポートしましたが、『飫肥(おび)西郷』と呼ばれ親しまれた小倉処平(おぐらしょへい)は、二年間英国に学んだ俊才でしたし、佐土原隊の隊長で佐土原藩(現宮崎市)藩主忠寛の三男、島津啓次郎は、実に七年間米国に学んで、アナポリス海軍兵学校で成業したという貴公子でした。
 
小倉処平は、1845年(弘化3年)、飫肥(おび)藩(現宮崎県日南市)の中級藩士・長倉喜太郎のニ男として生まれます。少年期を藩校・振徳堂に学び、18歳のとき同藩士・小倉九十九(つづら)の養子となりました。
 
1864(元治元年)に藩命で京都に出、藩の外交に飛び回ります。帰藩すると振徳堂の句読師(読み書きを教える人)となり、また寮舎長にも選ばれました。小倉の指導理念は、広く世界へ目を向ける必要性を説く進歩的なもので、塾生から尊敬を集めていたそうです。
 
間もなくして江戸に出て、飫肥藩清武郷(現宮崎県清武町)出身の儒学者・安井息軒の門下生として江戸の三計塾に学びます。このとき、同じ門下生であった陸奥宗光や谷干城(たにたてき、第2代学習院院長)らとの交流を得ます。
 
       1.小村寿太郎と小倉処平
 
1861年(文久元年)、小柄で病弱ながら頭がよく、とても好奇心旺盛な6歳の男の子が藩校・振徳堂に入学してきました。大家族で豊かとはいえない環境にあったその男の子は学費免除のため、学校の掃除、生け垣の刈り込みなどの仕事をしながら人一倍勉学に励み評判となります。のちに陸奥宗光に見出され、外務大臣、ポーツマス条約の全権大使として活躍する小村寿太郎でした。
 
早くから寿太郎の非凡な才能を見抜いてた小倉処平は、1869年(明治2年)、特例の推薦を藩に上げ、15歳でないと入寮できない振徳堂東寮に、14歳の寿太郎を入寮させます。そして、寿太郎をより良い環境へ導くべく公費による留学制度を藩主に進言し、寿太郎を自ら引率して長崎の洋学校『致遠館』に遊学させました。
 
さらに小倉処平は、大学南校(現東京大学)に進学させるべく寿太郎を伴って東京へ旅立ちます。しかし、当時の大学南校は雄藩出身者で独占されていました。そこで、処平は、小藩出身の人材にも等しく勉学の機会を与えるべきと『貢進生制度』を政府に建議し実現させ、小村寿太郎を入学させました。これによって、寿太郎は後に大成する契機を得たのでした。
 
         2.留学、そして帰国
 
『貢進生制度』建議の功績によって文部権大丞(もんぶごんだいじょう)の職についた小倉処平は、官命によって英国、フランスに留学して、政治や経済を学びますが、数十名の留学生の内、学識において処平の右に出る者はなかったといわれます。また、その風采は、のちに郷党から『飫肥西郷』と呼ばれ親しまれたように、生来肥満堂々としていたといわれます。
 
処平は最初、教育制度を調査するためにアメリカに向いましたが、途中で植民地となった国民の姿を目にしたとき、政府による性急な欧米化政策や藩閥政治による弊害に大きな危機感を抱き、当初の予定を変更して、親友の香月圭吾とイギリスに渡って、経済を研究することになったそうです。
 
留学の途について2年後の1873年(明治6年)冬、国内で征韓論が決裂したことを知ると急遽帰国。西郷隆盛・板垣退助らが下野すると、自らも飫肥に帰郷します。翌年、明治政府に対する士族反乱の一つである佐賀の乱が勃発し、敗れたリーダの江藤新平らが処平を頼ってひそかに飫肥へ潜入してくると、港から土佐へ逃亡させました。その罪で小倉処平は禁錮刑に服しますが、その後、大蔵省七等出仕となります。
 
           3.西南戦争
 
1877年(明治10年)2月、西南戦争が勃発すると、『日向の人心を鎮撫(ちんぶ)してくる』と唱(とな)えて帰郷しましたが、すでに飫肥士族 300名が前線にあることに義を感じ自らも身を投じ、飫肥隊の総帥として、人吉撤退後は野村忍介率いる奇兵隊の奇兵隊軍監として、各地を転戦しました。
 
しかし、西南戦争最後の決戦となった同年8月15日の『和田越の決戦』(現宮崎県延岡市)で、政府軍は、薩軍 3,500に対して5万の兵で攻撃。処平はこの戦いで大腿部に銃創。敗走後、延岡市川坂の神田伊助宅に逃れて加療。
 
一方、敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた西郷隆盛は翌16日、解軍の令を出し、可愛岳(えのだけ)突囲(包囲を突破すること)を決め、約 600名の精鋭部隊が17日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始めます。
 
神田伊助宅で加療中このことを知った小倉処平は西郷の後を追ったものの果たせず、可愛岳登山口から南西約1kmのところにある高畑山の中腹で自刃。惜しまれる32歳の若さでした。
 
【参考にした図書とサイト】
・江藤淳著『南洲残影』(文藝春秋社、1998年3月初版)
・小村寿太郎候顕彰展資料 小村寿太郎候と藩校振徳堂の教官たち
みやざきの101人〜E小倉処平 
 
【備考】
下記の旅行記があります。
旅行記 小倉処平の史跡を訪ねて − 宮崎県
 
また、下記のページが参考になります。
旅行記 西南戦争史跡〜可愛岳 − 宮崎県延岡市
レポート 村田新八 〜 西南戦争人物伝(1)
 
〔編集後記〕
非凡な才能を持ち、かつ人一倍の努力家ながら不遇の連続だった小村寿太郎には、幸運な、二人の人物との出会いがありました。幼年期から青年期にかけての小倉処平とそののちの陸奥宗光です。寿太郎は、第1回文部省海外留学生に選ばれ米国ハーバード大学へ2年間留学し法律を学びました。そこでも優秀な成績を修め、 143cmという小さな体の寿太郎に対して他の学生たちが帽子を脱いで挨拶するほど尊敬されたそうです。小村寿太郎と小倉処平の年譜を突合せてみると、ハーバード大学入学が1875年、寿太郎21歳のとき。佐賀の乱が勃発した翌年のことでした。そして、小倉処平が延岡の山腹で自刃したその年に、寿太郎はハーバード大学法律科を卒業しました。それから3年後の1880年に米国留学を終えて帰国した小村寿太郎が真っ先に向かったのが小倉処平の墓でした。寿太郎はそこでいつまでも号泣し続け、立ち去ることがなかったそうです。
 

2007.12.18  
あなたは累計
人目の訪問者です。
 − Copyright(C) WaShimo AllRightsReserved.−