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宮崎兄弟の生家 |
宮崎兄弟の生家・宮崎兄弟資料館入口 |
宮崎兄弟の生家 1897(明治30年)、まだ草深い荒尾村を亡命客の孫文が訪れた。孫文が滔天(とうてん)と綴った筆談の書や、孫文が親しんだ庭にある梅の古木、泉水、味噌蔵、それに滔天がシャム(現タイ)から持ち帰った菩提樹等がその頃の様子を偲ばせる。宮崎兄弟の生家は、近代日中交流史の原点でもある。(以上、宮崎兄弟の生家の入口の説明板より) |
宮崎兄弟資料館(左)・宮崎兄弟の生家(右前方) |
宮崎兄弟資料館 宮崎兄弟資料館は、揺れ動いてやまぬ近代日本の在り方に全身で立ち向かった宮崎兄弟の生の軌跡を振り返るとともに、中国革命と孫文に関わる様々な資料にふれることができる、日中の平和と友好のために、また新しいアジアと日本の交流の発信地である。(以上、宮崎兄弟の生家の入口の説明板より) |
宮崎兄弟の生家 |
熊本県指定史跡・宮崎兄弟の生家 宮崎家の祖は筑前三笠郡宮崎村の住人で後肥前国佐嘉に移り鍋島候に仕えた。正保4年(1647年)正之が荒尾村に分家移住し荒尾宮崎の祖となる。子孫は代々細川藩に仕えて一領一疋の郷士の待遇を受けた。九代長兵衛政賢の時ゆれ動く明治維新の中で宮崎兄弟の行動は異彩を放った。 |
宮崎兄弟の生家 |
長兄八郎(実際は次男、備考をご参照)は、若くして熊本自由民権運動の先達となり文筆と行動にたけたが民権党を率いて西南の役にたおれた。民蔵は土地の天賦均享論を唱え百姓の使者と称して外国をまわった。土地復権同志会の設立後土地の再配分運動に奔走したが失敗し孫文の中国革命に参画することとなる。 |
宮崎兄弟の生家 |
彌蔵と滔天は人類平和の理想国家を中国に建設するため行動を起こしたが彌蔵は病のため横浜でたおれた。滔天は孫文を助け清朝転覆に成功し中華民国の建国をみたが真の平和の日の訪れを見ずに大正11年12月6日波乱に満ちた52年の生涯を終わった。 |
孫文と滔天と滔天の妻・槌子 |
孫文は明治30年の秋に宮崎家に亡命し民蔵の土地問題に対する考えに深い感銘を受けた。大正2年3月19日に中国建国を終えて宮崎家の人々への感謝のため再び宮崎家を訪れた。日中両国の善隣友好とアジアの平和発展を考える場合中国民衆のために生涯を捧げた宮崎兄弟の功は不滅であると言わねばならない。熊本県 (以上、現地説明板より) |
孫文と滔天と滔天の妻・槌子 |
四兄弟の父・宮崎政賢(みやざき・まさかた)の教え 初名は長兵衛のちに長蔵と改名。51歳の時に明治元年(1868年)となる。熊本藩知事の改革により、戸長に任命され村の世話役となる。しかし、東京に遊学中の八郎が、生活のために父が小さな官職に付くことを嫌ってしきりに辞任を願い、戸長を辞した。明治10年(1877年)4月6日、西南戦争で西郷隆盛方として参戦した八郎が戦死。報を受けた長蔵は号泣して家の者に『今後一生官の飯なぞ食ってはならない』と厳命したという。 |
宮崎兄弟資料館 |
政賢は、情に厚く子女の教育に熱心で、家は文武道場のようであり、窮民のため家政を顧みず私財を注ぐ事を惜しまなかった。三池藩内の干拓事業に引き込まれる形で関与し、近隣火災の後始末を背負い込むなどして晩年には宮崎家の家産は傾き困窮していた『金納によって下層の武士となるよりも、上層の庶民であれ』という思想であり、末子の滔天が金銭を手に触れると『卑しいマネはするな』と厳しく叱り、また『豪傑になれ、大将になれ』と日々言い聞かせていたという。 |
宮崎兄弟資料館 |
八郎の死から2年後、明治12年(1879年)10月10日、脳溢血で死去。享年62。翌年、六男・民蔵が家督を継いだ。大柄で長刀の名手であった妻の佐喜もまた『男子が畳の上で死ぬのは何よりの恥辱』と子供たちに言い聞かせる武の家の気風であった。政賢の死後、妻の佐喜は家財を質に出すなど苦労して息子達に学問を続けさせた。(以上、宮崎政賢 - Wikipedia より転載) |
宮崎兄弟資料館 |
宮崎八郎(みやざき・はちろう、1851年〜1877年) 宮崎四兄弟の長兄(実際は次男)。中江兆民の塾に学びルソーの『社会契約論』の部分訳である『民約論』を経典とする植木学校を創設。しかし、自由民権運動のため県からの補助金を打ち切られわずか6ヶ月で閉校。西南の役が勃発すると西郷隆盛を支持。民権家同士で熊本協同隊を結成し川尻(熊本県)で薩軍に合流、桐野利秋のもと共に政府軍を相手に戦いますが熊本県八代市萩原堤において志半ばの26歳で戦死。 |
宮崎兄弟資料館 |
宮崎民蔵(みやざき・たみぞう、1865年〜1928年) 六男。貧農救済の立場から土地問題を志した。欧米視察旅行後、荒尾村村長となり、翌年、土地復権同志会を組織し、『土地復権論』をもとに運動を進めた。孫文らとも心交があり、孫文の三民主義の中の『民生主義』における『平均地権』の考え方にも同趣旨の思想が生きていると言われている。主著に『土地均享・人類の大権』(明治38年)がある。また、辛亥革命後に中国に渡って、革命の援助を行った。滔天の良き理解者であり援助者であった。 |
宮崎兄弟資料館 |
宮崎彌蔵(みやざき・やぞう、1867年〜1896年) 七男。宮崎家の第十子、七男、滔天のすぐ上の兄。養子にゆき、島津姓を名乗った。明治20年(1887年)に中国への志を滔天に吐露、滔天の目を中国問題に向けさせた。自ら中国人になり切ろうと横浜へ出て商館のボーイとなり、頭を辮髪(べんぱつ)にして、中国革命とそれにもとづくアジアの解放をめざして活動をすすめていたが、志半ばに倒れた。 |
宮崎兄弟資料館 |
宮崎滔天(みやざき・とうてん、寅蔵・1870年〜1922年) 八男。宮崎寅蔵、明治28年頃から白浪庵滔天と号する、宮崎家の末子である。兄彌蔵の影響を受け、中国革命支援のため、献身的に活躍した。孫文の日本滞在を可能にする一方、革命派の一方のリーダー、黄興や宋教仁らと孫文との画期的な同盟に尽力した。 |
宮崎八郎 |
明治の自伝の名著に数えられる滔天著『三十三年の夢』は、いち早く漢訳され、中国知識人や学生に孫文の存在を知らしめる契機となった。桑原武夫氏曰く、『明治最大の情熱的ロマンチスト』といい、孫文曰く、『東洋の侠客』という滔天は、中国が今日も高く評価する日本が生んだ日中交流の一大先達者である。 |
宮崎民蔵(左)・宮崎彌蔵 |
孫文(そんぶん、1866年〜1925年) 中国革命の指導者。広東省出身。少年時代ハワイに渡り、帰国後医学を学び開業したが、清朝打倒のため、1894年興中会を組織。1905年、東京で中国革命同盟会を結成して、三民主義を主唱した。辛亥(しんがい)革命の際、臨時大総統に就任したが、まもなく袁世凱(えんせいがい)に譲った。のち中国国民党を創設し革命の完成をめざしたが、その中途にて病死した。 |
宮崎滔天(左)・孫文 |
【備考】宮崎政賢・佐喜夫妻は八男三女をもうけましたが、長男、四男、五男が早世、三男伴蔵も未成年(19歳)で病死。したがって、次男八郎、六男民蔵、七男彌蔵、八男滔天を宮崎四兄弟といいます。 |
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