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旅行記 ・飛騨高山 〜 山岡鉄舟を訪ねて− 岐阜県高山市 2014.02
そうゆうじ
宗猷寺
宗猷寺
高山市の古い町並み『さんまち』界隈から
国道158号線を東へ700〜800mほど上ると東山寺町の一角に着きます。南北に流れる江名子川の東、高山の
市街地を見下ろす小高い山の中腹に神社と寺院群が立ち並びます。
 宗猷寺・山門
初代高山城主の金森長近が
城下町を整備する際に、京都の東山寺町にならって、町の東側の高台に寺院を建立、
周辺にあった寺院を移築させたのが東山寺町です。
宗猷寺・本堂
その東山寺町の一角にある宗猷寺(そうゆうじ)は、
寛永9年(1632年)に三代目金森重頼と弟で家老の金森左京重勝が建立し、妙心寺前南叟宗安を開山と
する臨済宗のお寺。
石垣は高山城から移されたものともいわれます。
山岡鉄舟の碑
山岡鉄舟の実父で第21代飛騨郡代だった
小野朝右衛門が和尚と親しい間柄であったため、
鉄舟は当寺で禅学を修めたといわれます。
境内には
『鉄舟碑』『鉄舟の父母の墓』があります。
山岡鉄舟父母の墓の説明板
『鉄舟と大鐘』のエピソード
ある日、宗猷寺に遊びに行った鉄舟が鐘楼の大鐘を
しげしげと眺めていると、和尚が 『鉄さん、鉄さん、この鐘がほしいですか。欲しければあげますから、
持って行きなさい。』と声をかけました。
山岡鉄舟父母の墓
すると、鉄舟は『ありがとうございます』と言って一礼し、
そのまま飛んで帰って、父に『宗猷寺の大鐘をもらいました』と報告します。父が微笑しつつ、『では取って来なさい』というと、
鉄舟は小躍りして喜び、早速出入りの若者たちを引き連れて宗猷寺へ引き返しました。
宗猷寺・鐘楼
鉄舟があまりにも真剣になって大鐘をおろそうとするので、
和尚はさっきは冗談で言ったのですと何度も謝りますが、鉄舟はまったく聞き入れる耳を持ちません。困り果てた和尚は、
とうとう父の朝右衛門を呼んで説得を頼み、やっとのことで事態が収拾しました。
宗猷寺・鐘楼
 
高山陣屋
高山陣屋・表門
山岡鉄舟像
『若き日の山岡鉄舟』像
 
高山陣屋 
幕府の直轄地(天領)であった飛騨高山の陣屋として 177年間にわたって25代の代官・郡代が政務を行ったところ。元々高山城主金森氏の下屋敷だったものを金森氏の移封後、陣屋にしたもので、唯一現存する江戸時代の陣屋。1929年(昭和4年)に国史跡に指定されています。第21代の郡代・小野朝右衛門は山岡鉄舟の実父で、山岡鉄舟(小野鉄太郎)は少年期をこの屋敷で過ごしました。
山岡鉄舟
名は高歩(たかゆき)、通称は鉄太郎。幕末の幕臣、明治時代の政治家。禅に通じ、剣を極め、書を能くした。弘化2年(1845年)、飛騨郡代として着任した父小野朝右衛門、母磯について高山陣屋へ入った。書は高山の書家岩佐一亭に教えられ、15歳で弘法大師流入木道の伝統を継承した。剣は江戸から招請した北辰一刀流の井上清虎に学び、のち一刀流正伝を継ぎ、無刀流の一派を開いた。禅は13歳ごろに始め、国・漢学・絵画等も高山在住時代の約8年間に学ぶなど、人間形成の礎は飛騨の風土の中で培われたものと考えられる。陣屋の松をみて
 
   
降る雪と力くらべや松の枝
 
と詠んだ。父母の死後江戸へ帰り、のち山岡家の養子となった。勝海舟や義兄の高橋泥舟等と共に幕臣として活躍、慶応4年(1868年)3月、西郷隆盛と会見して江戸を戦火から救い、徳川家の安泰を導いた。維新後は明治天皇の侍従をつとめ宮内小輔を拝名。 52歳の5月、華族に列せられ、勲功により子爵を授けられた。翌明治21年(1888年)7月19日、病を得て結跏趺座(けっかふざ)のまま53歳の生涯を閉じ、東京谷中の全生庵に葬られた。父母の墓は高山市東山宗猷寺にある。昭和62年12月 山岡鉄舟翁顕彰会。
※ 以上、岐阜県高山市の高山陣屋跡前の広場にある『若き日の山岡鉄舟』像の碑文より転載。
山岡鉄13歳の時の書    
高山陣屋と松
   山岡鉄舟と飛騨高山  山岡鉄舟の書
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