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旅行記 ・宮崎八郎戦没の地 − 熊本県八代市 2019.07
宮崎八郎戦没の地
宮崎八郎戦没の碑
宮崎八郎(1851年〜1877年) 玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)の出身の自由民権運動家で、いわゆる宮崎四兄弟の長兄(実際は次男)。実弟(八男)に辛亥革命の孫文を支援した宮崎滔天(とうてん)がいます。宮崎八郎は、中江兆民の塾に学び、ルソーの『社会契約論』の部分訳である兆民の『民約論』を経典とする植木学校を創設します。
 
司馬遼太郎氏の書による碑銘    司宮崎八郎(1851〜1877年)
しかし、自由民権運動のため県からの補助金を打ち切られわずか6ヶ月で閉校。西南の役が勃発すると西郷隆盛を支持。民権家同士で熊本協同隊を結成し川尻(熊本県)で薩軍に合流、桐野利秋のもと、共に政府軍を相手に戦いますが熊本県八代市萩原堤において志半ばで戦死。26歳でした。萩原堤は景勝の地として知られ、司馬遼太郎氏の書による戦没の碑が建てられています。
碑文
碑文 此処萩原堤一帯は明治十年西南の役に於て田原坂と共に多数の死傷者が出た激戦地である。当時熊本協同隊の参謀長であった宮崎八郎は薩軍を援助して奮戦したが四月六日の拂暁遂に此の地で戦没した。時に弱冠二十七歳であった、因みに後年中国革命の父孫文と交友深く活躍した宮崎滔天はその実弟にあたる。茲に一同相諮りその遺跡を後世に伝うべくこの碑を建立するものである。平成元年四月六日。八代市萩原老人クラブ。
『名勝 萩原提』の標柱
名勝 萩原堤 この堤防は加藤右馬充正方が松江の地に新しく八代城を築くに当たり球磨川の洪水から城下町を防護する重要な水衝部に強固な堤防とそれを補強するため「天神七刎」を築いた。加藤家改易後、細川三斎、松井家代々、当主は堤防に松を植え、のちに「松塘」といい、その景観は「八代八景」にも詠まれる名勝地であった。宝暦五年(1750)六月の大洪水で決壊したが、郡目附稲津弥右衛門頼勝によって修復された。今も四つの刎(水の勢いを弱めるための石の突堤)跡が残っている。(標柱文より)
 
   宮崎八郎戦没の地  植木学校跡  光専寺
 
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