♪アルバム・リーヴス(メリカント)
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特攻基地〜海軍航空隊出水基地 − 鹿児島県出水市
                        (
今年(2007年)も8月15日、終戦記念日がやってきました。大戦で、南海に散華し還らぬ人となった特攻隊員は、陸海軍合わせて約6,000人(航空特攻約4,400名、航空以外約1,600名)を越えるといわれます。鹿児島県内にあった特攻基地では、いずれも陸軍航空隊の基地であった知覧基地(特攻戦没者436名)と万世基地(201名)が良く知られていますが、その他にも海軍航空隊の特攻基地として、鹿屋基地(908名)、串良基地(359名)、出水基地(約200名)、国分基地(427名)、指宿基地(水上機特攻82名)、鹿児島基地がありました。海軍航空隊のそれらの特攻基地は全国的には、知覧や万世ほどは知られていないかも知れません。本HPの管理者の自宅から国道を約40分走ると、鶴の越冬地や武家屋敷群で知られる出水市があります。その市街地のなかに海軍航空隊出水基地はありました。今でも街角や民家の庭先などに、基地施設の跡形が残っています。恒久平和を祈念しながら、その様子などをアップロードしました。
                                                 (旅した日 2007年3月、4月、8月)
出水基地
特攻神社に立つ特攻像『南方のかなた』
出水基地は、昭和12年(1937年)に飛行場の建設が始まり、開隊は昭和18年(1943年)4月15日。すでに日本軍の敗色濃い時代でした。開隊当時は、練習航空隊として予備学生、甲種予科練等の陸練操縦教育を担当していました。昭和19年3月15日に、国分分遣隊を設置、同年8月15日国分分遣隊が独立して、国分海軍航空隊が開隊します。昭和20年2月11日、出水海軍航空隊は解隊し、国分海軍航空隊が第一出水海軍航空隊と改称されます。同年4月以降、出水基地は特攻基地として銀河隊等が進出し、沖縄の米機動部隊に対して攻撃を行い、約200名の特攻隊員が南海に散華して行きました。
特攻碑公園にある案内板の『出水基地略図』


大通りと哨舎(しょうしゃ)
基地に進む大通り(写真上) 春・桜の下で(写真下)
基地に進むメインストリート。その両側には桜が植えられ、いま、春になると桜の長いトンネルができます。かつて多くの若者が大空に憧れ通っていった通りです。

この通りの中ほどにコンクリート製の頑丈な地下壕が完全な形で残されていて、そこに、隊門近くにあった哨舎(しょうしゃ)を移築し特攻碑公園が作られ、特攻碑や銀河隊の碑が建てられました。

3月末に取材したとき、大通りや特攻碑公園では桜吹雪の舞うなかで桜まつりが開催されていましたが、8月には大通りは緑陰のトンネルとなっていました。

特攻が最も多く行われたのは、1945年4月上旬から6月下旬の期間でした。

哨舎(しょうしゃ)とは、歩哨(軍隊で、警戒・監視などの任務につく兵士)が詰める小屋のことです。
哨舎(しょうしゃ)(写真下)



特攻碑公園
鎮魂 殉国之英霊(写真上)


特攻碑

落暉(らっき)=没する太陽、夕日 
※公園内には、『長州の花に生まれて国の為 出水
  の里で永久に眠れり』という遺族献碑もあります。


海軍航空隊出水基地
陸攻隊銀河隊

出撃之地
            
  大東亜戦争中昭和十九年十月、銀河陸上爆撃機四〇五、攻撃四〇六飛行隊は、此の地に七六三空を編成開隊し、殉職者相次ぐ猛訓練を重ね、台湾・比島・沖縄方面に転戦、特に比島及び出水よりは特攻出撃を繰り返し、翌二十年四月までの間にその多くが散華した。
  昭和二十年四月、一式及び九六式陸上攻撃機松山空・豊橋空攻撃隊は、米軍沖縄上陸に対応し、急遽此の地に進出、出水部隊陸攻隊として沖縄周辺の米艦船並びに飛行場に果敢な夜間攻撃を反復し、早くも六月遂にその過半を失うに至った。
  昭和十八年出水海軍航空隊開設以来、若き隊員を声援し、空襲下基地修復にも努められた出水の市民に、多くの犠牲者を生じたことは遺憾の極みである。戦後五十年に当り、戦没者全員の慰霊のため、ここに碑を建立するものである。
           
   平成七年四月十六日

   出水市特攻碑顕彰会
   松島空・豊橋空慰霊世話人会
   攻撃四〇五・攻撃四〇六飛行隊有志
近海より引き上げられた日本軍機のプロペラ(写真下)



地下壕跡
完全な形で残されたコンクリート製の地下壕(写真上) 壕の出入口には千羽鶴が(写真下)

       特攻について

特攻は、正式には特別攻撃隊という。海軍として最初の組織的な航空機特攻作戦を発令したのは、大西瀧治郎海軍中将である。これは1944年10月の台湾沖航空戦の敗北の結果、組織的戦闘が不可能になっていた航空戦力活用のためである。この作戦は、レイテ沖海戦において敵空母部隊の飛行甲板を一時的に使用不能とさせ、航空戦闘能力を一時的にでも喪失させることを目的に初めて実戦で行われることとなった。大西は生還を全く見込めない戦法を自ら「外道の統率」であると認識していたが、アメリカ機動部隊の航空戦力を一時的に作戦行動不能にして栗田艦隊のレイテ突入を支援するためには有効な戦法と判断し、それを命じている。

特攻隊は、海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの部隊が編成されているが、最も著名なものが海軍の神風特別攻撃隊である。これは、海軍航空機からなる特別攻撃隊であり、元寇を追い払ったと言われる「神風」の思想の影響からか、特に神風特別攻撃隊と呼称していた。本来の読みは「しんぷうとくべつこうげきたい」であるが、初出撃を報じる「日本ニュース」ナレーションで「かみかぜとくべつこうげきたい」と読んで以降、「かみかぜ〜」が定着した。
 壕の大部屋内部、ここで作戦等の計画が練られました(写真下)
壕出入口階段から桜まつりの日の提灯を見上げる(写真下)

特攻に消極的だった陸軍も、時局の趨勢に依り特攻隊を編成した。陸軍の航空特別攻撃隊は、当初は海軍の「神風」のような統一した隊名を用いず、その都度命名されたが、沖縄戦が始まり、回数が増えると、やがて「第○振武隊」のような命名が増えていった(丸には数字が入る)。沖縄戦では知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。

特攻が最も多く行われたのは沖縄戦においてである。沖縄周辺に侵攻したアメリカ海軍やイギリス海軍を中心とした連合国軍の艦隊に対し、日本軍は菊水作戦(きくすいさくせん)を発動して特攻隊を編成し、九州から航空特攻を行った。

菊水作戦は、太平洋戦争末期、連合軍の沖縄への進攻(沖縄戦)を阻止する目的で実施された日本軍の特攻作戦である。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する。作戦は第1号(1945年4月6日〜11日)から第10号(6月21日〜22日)まで実施され、その後も終戦までの間断続的に特攻が続けられた。沖縄周辺での特攻作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死した。−以上フリー百科事典・ウィキペディア参照−



特攻神社
        いわれ沿革

 
当神社は、昭和十八年四月一日開隊された出水海軍航空隊の守護神として建立されたが、同航空隊が特別攻撃隊の基地となるや、出撃する特攻隊員の総べてが当神社に使命の成功と国家の安泰を祈願して出撃したと伝えられている。
 大東亜戦争終結により、航空隊は解散し神社も撤去され台座を残すのみとなった。神社跡地には樹木が植樹されていたが、その度宅地造成により神社の台座が発見されたので、崇敬者等が当地を買取り『特攻神社』を建立して特攻隊員として戦場に散った命達を祭るとともに祭神の御神徳をひろめ、崇敬者をはじめ特に神道を正しく理解する青少年を育成するために設立した。

  平成二年四月吉日
            特攻神社崇拝者一同

          英霊の碑

 第二次世界大戦に於て祖国日本を守護せんとして昭和二十年四月十七、十八日 出水海軍航空隊基地にて壮烈な戦死を遂げた出水第二海軍航空隊所属練習生の若き勇士百余名の無名戦士の墓標を英霊の碑と改め茲に判明された戦死者の名を刻し永久に安らかに眠り給えと祈りこの碑を建立せるものである



出水ゴルフクラブ
出水ゴルフクラブ
出水ゴルフクラブは、九州新幹線出水駅から車で5分、市街地の真ん中にある便利なゴルフ場です。 海軍航空隊出水基地の飛行場だった跡地のゴルフ場のため、傾斜のないフラットコースです。パー 18ホール、PAR72、6,420ヤード. 。 〒899-0217 鹿児島県出水市平和町279(TEL 0996-62-0913)
出水のコースはフラットだ。かつてここは、旧海軍航空隊の基地だった。 飛行場の建設が始まったのが昭和12年、開隊は18年、すでに日本軍の敗色濃い時代だった。ここを舞台にした小説に阿川弘之著の『雲の墓標』がある。 この基地から飛び立った特攻隊員は約200名、ゴルフ場近くの桜並木のなかほどに特攻碑がある。四月、青空に散華する桜が寂しいのは、そのためかもしれない。 昭和30年、ここに航空学校が設置されるという話が舞いこんだ。 しかし、住民はムシロ旗を押し立てて反対し、飛行場の再開はなされなかった。 また、翌年にはこの未開拓地を農民に解放せよという陳情もなされている。 製紙工場の誘致がとりざたされたこともあった。 コースはフラットだが、コースの開場まではけっして平坦な道のりではなかったのである。 逆にいえば、このクラブほど市民のさまざまな思惑と期待のなかで創られたコースはないといえよう。          
『出水ゴルフクラブ30周年史』(1995年10月23日発行)より
出水ゴルフクラブから北北西にのびた直線道路(滑走路跡)
コンクリート製の主滑走路跡は、現在企業などの敷地となっていますが、その横を走るこの直線走路が滑走路の名残を残しています。
出水ゴルフクラブに沿って走る道路(エプロン地区跡)
出水ゴルフクラブの東に隣接して走る道路(写真上)。この道路の手前左あたりが格納庫群になっていました。車が止まっている所は、現在植木市会場の駐車場ですが、この付近がエプロン(格納庫の前の作業場)になっていました。
基地の跡形

可愛いとんがり屋根をもった綺麗な保育園の駐車場の一角にこの防空壕跡はあります。入口はコンクリートでふさがれ、先生たちが花壇の手入に使う道具でしょうか、農作業用の一輪車やポリバケツや手袋などの置場になっているようでした。この壕の周りには士官宿舎や士官室があったようなので、士官用の防空壕だったのでしょうか(写真左)。


保育園の敷地内にある空壕跡 ボイラー室だったといわれる建物
ボイラー室だったといわる右写真の黒ずんだ建物は、基地の一番北にあった格納庫に近い場所の、今も人が暮らしている民家の敷地内にあります。機銃掃射によって刻まれた弾痕でしょうか、疵が残っています(写真右)。




地下発電所への入口
地の一番北にあった格納庫に近い場所に地下発電所がありました。コンクリートでしっかりした地下壕を作り、発電機を据えつけて発電し、基地に電力を送っていました。その地下発電所への入口が左写真です。その地下壕は今は土砂で埋まっていました。壕の近くにはコンクリート製の貯水槽があります(写真左)。





掩体壕(えんたいごう)
出水ゴルフクラブに隣接した畑の中に残っている『掩体壕(えんたいごう)』(写真上下)。掩体壕は、敵の爆撃から飛行機を守るための壕で、当時は数多くありましたが、現在一部形の残っているものは、コンクリート製の覆いを持つ有蓋型のものが三基あります。上の写真の掩体壕で、上部の穴は、太平洋戦争中の昭和20年(1945年)、爆撃によって破壊されたものです。


気象観測所
この写真の煉瓦造りの二階建ての建物は、かつて出水基地の気象観測所として使われていた建物です。ここで、気温・風速・湿度等の気象観測が行なわれていました。右側の道路を真っ直ぐ進むと滑走路(現在の出水ゴルフクラブ)に突き当たります。この建物は現在、民家の納屋として使われています。
編集後記

 − このような過去があったことをいつまでも記憶に留め、恒久平和を希求したいものです。−
【参考サイト】
神風特別攻撃隊/出水基地
神風特別攻撃隊


 ゴルフ場になった特攻基地  知覧〜特攻の町 万世飛行場跡

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