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オランダ商館時代の面影 − 平戸を訪ねて(1)
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長崎県平戸市は、平戸島や生月島及び九州本土北部の沿岸部に位置する田平町と周辺の多数の島々で構成された市です。豊かな自然環境に恵まれ、農水産業を主幹産業としていますが、戦国時代から江戸時代初期にかけては、オランダをはじめヨーロッパの国々との交流が盛んに行われ、『西の都フィランド(Firando)』と呼ばれる貿易港として繁栄した町でした。今も市内のあちこちに当時をしのぶ史跡が残されていて、異国情緒を漂わせています。また平戸は、平戸藩の城下町であり、平戸城や松浦史料博物館などの重厚な史跡を見ることができるとともに、美しい教会が存在するキリシタン文化の町でもあります。オランダ(和蘭)商館時代の面影をアップロードしました。
                                                       (旅した日 2007年04月)


平戸大橋
平戸市
長崎県北西部の平戸島を主な行政区域とする市で長崎そして九州本土としては最西端に位置する都市。鎖国前は国際貿易港だった。旧平戸藩(松浦氏)の城下町。2005年10月1日に周辺の田平町・生月町・大島村と対等合併して新市制による平戸市となった。これにより本土にも市域が拡大した。


平戸大橋(写真上)
平戸市の中心市街地がある平戸島(幅約10km、南北約45km)と本土部(旧田平町)を隔てる平戸瀬戸に架かる吊り橋。 延長 665m、幅員10.7m、桁下高さ30m。この橋が掛かるまでは、平戸の中心部へのアクセスは田平町の日の浦から平戸瀬戸を船で渡るのが主な交通手段でしたが、1977年(昭和52年)4月4日開通式が行われ、供用開始。普通自動車の通行料金が100円の、いわゆる100円橋。


オランダ街道のこと
オランダ街道ここに始まる 〜 日本初の和蘭商館開設の地平戸、その後200年をこえて和蘭商館が置かれた長崎・出島。オランダにとってのゆかりの深い二つの地点を結ぶ道路を、蘭日交流400周年を記念してオランダ街道と命名されたことは、両国の歴史に新しいページを書き加えるものである。この趣旨に心から賛同すると共に、蘭日両国の交流がさらに発展するように記念して、この記念碑を建立する。2000年4月21日609年 オランダ王国 ウィレム・アレクサンダー皇太子殿下 〜 とあります。平成12年4月20日に開催された『日蘭交流400周年記念式典』において、平戸市から佐世保市・西海市(旧西彼町)を経て、長崎市をつなぐルートが『オランダ街道』と命名されました。

和蘭(オランダ)商館跡
1609年(慶長14年)、2隻のオランダ船が平戸に来航した。時の領主松浦鎮信の斡旋によって、家康、ついで秀忠に謁見したオランダの使節は、商館の設置と貿易の許可を得、平戸オランダ商館が設置された。当初、平戸オランダ商館はオランダ勢力の『東インド』における活動を支える拠点としての機能を期待されたためか、食料や武器などを調達する機能が優先されていたと考えられる。1610年代には、大砲の修理などが平戸でおこなわれ、武器や食糧、また傭兵としての日本人がオランダ船に乗って東南アジアへ渡ったのである。
やがて、タイオワン事件(台湾での中国貿易をめぐるオランダ商館との紛争事件)を契機として、平戸オランダ商館は日本との貿易に重きをおくようになり、1630年代後半から貿易額、あるいは取引額は飛躍的に増大する。後の出島時代を含めても、貿易額が最高潮に達するのは平戸時代の後期である。貿易の蔵王代に対処するため、平戸オランダ商館は施設のさらなる拡張を図り、1637年、そして1939年に巨大な石造倉庫を建築する。
しかし、次第に進展する鎖国政策の波には抗し得ず、1639年築造倉庫は、破風(屋根の切妻にある合掌形の装飾板)にキリスト誕生を紀元とする西暦年号が記されていることを理由に破壊が命ぜられる。また、平戸オランダ商館自体も1641年(寛永18年)、長崎出島への移転を命じられ、平戸オランダ商館の歴史は幕を下ろす商館がこの地にあった33年間は、『西の都』と呼ばれるほどに貿易港として賑わいをみせていた。現在では、オランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭、常燈の鼻にその名残をとどめている。 〜以上平戸市教育委員会の案内板より転載〜 上の写真は、オランダ商館跡。


オランダ埠頭
オランダ埠頭(写真上)
商船の船着場として、商館員、船員の乗り降りをはじめ、積荷の揚げ降ろし運搬の重要な施設だった。干満に合わせられるように階段(写真の左手前部分にある)が造られている。

常燈の鼻(写真右)
鼻とは突き出したところという意味で、オランダ商館跡のすぐ前にある旧跡。1616年(元和2年)、オランダ商館大増築の際、防波堤をかねて築造された石積みの高台。貿易が華やかな時代、灯台の役目をしていたもので、平戸港に出入りする船の安全を図り、オランダの国旗も立てられていた。 商館の長崎出島移転後は、平戸藩の常夜灯があった。

オランダ塀より見下ろす平戸港(写真下)
オランダ塀から見下ろす平戸港で、走行している車が見える付近が、オランダ埠頭。向こうの見えるのが平戸城。


オランダ塀
オランダ塀(写真上・下)
石段に沿って続く漆喰(しっくい)で塗り固められた塀は、通称オランダ塀と呼ばれている。1609年から1641年までのあいだ、この塀の東側に、オランダ商館が置かれていた(上の写真では、手前下側。下の写真では、塀の右手下側)。商館を外から覗かれないために、また延焼などから守るために、この塀が設けられた。塀の高さは約2m、底辺の幅は約70cmある。商館当時の様子を知ることができる数少ない遺構の一つとなっている。

オランダ井戸(写真左)
オランダ商館員用の井戸として掘られたものである。築造年代については明らかでないが、商館移転の際の破壊を免れ、『オランダ』の名を残す数少ない遺構である。



   −Firando(フィランド・平戸)−

平戸は、オランダ語で、
Firando(フィランド)と書かれていたそうです。その他、Facata(博多)、Funai(府内)、Bungo(豊後)、Arima(有馬)、Tuxima(対馬)、Figen(肥前)、Nangasaqui(長崎)、Cangoxima(鹿児島)などと書かれていました。


商店街の風景
商店街の風景
オランダ商館跡のある崎方町から浦の町、宮の町、木引田町、紺屋町、魚の棚町、そして職人町に至る商店街の道路は、細長い入り江状の平戸港に沿って緩やかにカーブを描いて続く、全長がレンガ敷きの道。ガス灯をイメージして立てた街灯や両側に連なる古びた建物がいかにも平戸らしい雰囲気を感じさせます。

       
      − 平戸発、日本発 −


日本最初の海外貿易港として平戸には、珍しい西洋人の日常が持ち込まれました。


ビール
は、1613年英国船『グローブ号』が平戸に来航したとき、長い航海の疲れをいやすための飲み物として持ち込まれました。煙草は、1601年、宣教師ピエトロニムス・デ・カストロが、薬用として葉タバコを持ち込んだのを、やがてオランダ船員が火を付けて吸ったのが日本初の喫煙だったそうです。1550年来航したポルトガル船で主食とされていたのが麺麭(パン)でした。1609年にオランダ商館ができたとき、その外観を彩りよく飾っていたのが、日本で初めて使われたペンキだそうです。

      〜参考:平戸市ホームページ〜


寺院と教会が見える風景
寺院と教会が見える風景(写真上)
石段が続く坂道を登っていくと、白壁土塀の道が現れる。
聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂の瀟洒な尖塔と正宗寺、光明寺、瑞雲寺の重厚な瓦屋根が連った、いかにも日本と西洋の文化の交差を象徴しているかのような風景は、平戸を代表するエキゾチシズムな風景である。

聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂
平戸カトリック教会というのが正式名称で、1931年(昭和6年)の築造。1550年(天文19年)に平戸を訪れたフランシスコ・ザビエルを記念して、1971年(昭和46年)、この一角に、立像が建てられたのを機に、聖フランシスコ・ザビエル記念教会と名称が改められた。今も平戸のカトリック教徒の信仰の中心となっている(写真左)

松浦史料博物館(写真下)
蘭英貿易が盛況を極めた時代の藩主松浦侯三代の邸宅を前身にした史料博物館。
桃山様式の石垣の上に、長い白塀を巡らした堂々とした風格ある風景が印象的。石垣などは、当時のままのもの。建物は、明治時代に松浦氏の邸宅として建てられたもので鶴ヶ峰邸と呼ばれていた。明治時代に、第39代当主より土地、建物及び一切の資料の寄贈をうけて歴史史料館として発足した。鎌倉時代以降の武器・陣具類、松浦党・水軍に関するもの、貿易時代の南蛮紅毛渡来の品々や文献類など3万点余を所蔵。


オランダ橋(幸橋)
幸橋(国指定建造物、写真上)
当初、ここに架けられていた橋は木橋(1669年設置)であったが、1702年(元禄15年)、石橋に架け替えられた。かつてオランダ商館を築造した、石造倉庫の技法によって造られたといわれており、これが『オランダ橋』の別称の由来となっている。写真右手から橋を渡り終わるとすぐ平戸市役所です。

イギリス商館の碑(写真左)
イギリスと日本の交流発祥の地である『平戸イギリス商館』を記念して、1927年(昭和2年)、日本在住イギリス人たちにより寄贈され、イギリス商館比定地の対岸のこの地に設置された。背後の建物が平戸市役所です。

オランダ船錨(いかり)(写真下)
大型の錨は、1952年(昭和27年)に川内港から引き上げられたもので、松浦史料博物館に展示されているオランダ船錨(県指定文化財)ともよく似ており、海外貿易で栄えた平戸を実証する資料である。小型の錨は、1956年(昭和31年に平戸瀬戸で引き上げられたものである。幸橋のたもとに展示されています。


川内(かわち)
平戸市街から国道383号を10kmほど南下すれば、深い入り江となった港があります。『川の内にいるようだ』というその情景から、川内(かわち)と呼ばれるようになったこの港町は、平戸名産『川内かまぼこ』で知られる町ですが、大航海時代には多くの外国船が帆を休め、平戸港の副港として大いに賑わった港町で、歓楽街丸山跡やオランダ商館倉庫跡が当時の面影を伝えています。この地はまた、明王朝に最後まで忠誠を尽くし、台湾をオランダの植民地から解放した民族的英雄『鄭成功』(ていせいこう、チウ・マンチェク、1624〜1662年)の生まれたところでもあります。
レポート ・人形浄瑠璃『国姓爺合戦』 〜 鄭成功
レポート ・平戸はなぜオランダ商館?
旅行記  ・美しきカトリック教会 − 平戸を訪ねて(2)
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