♪わすれな草(リヒナー)
ぴあんの部屋
治水神社・千本松原 − 岐阜県海津市
                        (
昔の濃尾平野は木曽(きそ)・長良(ながら)・揖斐(いび)の三大川が乱流していて、大雨のたびに、現在の大垣市墨俣町より南の地域は、一本の川になって氾濫し、地域住民はこの自然の威力にただただ逃げまどうばかりでした。これに対して幕府は、大規模な治水工事を計画し、当時幕府につぐ強大な力を持っていた薩摩藩に、藩の財政力を弱めるため、その工事を命じました。これが『宝暦(ほうれき、ほうりゃく)の治水工事』でした。この工事で薩摩藩は、30万両の大金と多くの犠牲者を出し、幕府役人の圧迫と病に苦しめられながら、血と涙と汗で見事に完成させました。総奉行平田靭負(ひらたゆきえ)は工事中に51名の割腹者と33名の病死者を出し、多額の費用を費やした責任を負い、大牧の本陣(元小屋)で宝暦五年五月二十五日割腹し果てました。時に52才。今日、西濃地方が順調な発展を続けていられるのも、こうした先人の偉業のたまものであります(以上、治水神社境内の『宝暦治水工事のあらすじ』より)。宝暦治水工事由来の地である治水神社と千本松原を訪ねました。                        (旅した日 2007年06月)


千本松原
千本松原
木曽三川公園センター内にある高さ65mの展望タワーから南を眺めた光景。南にのびる松林が千本松原で右が揖斐川、左が長良川、さらに左端にわずかに見えるのが木曽川。
宝暦治水の四の手工事で造った『油島締切堤』に薩摩藩士が植えた日向松(ひゅうがまつ)の並木が千本松原です。上の写真は、千本松原をその南端から見た景色です。右は長良川。
宝暦治水工事から250余年。樹齢250年余の日向松には堂々とした風情がありますが、松くい虫の被害が問題になっています。鹿児島県の有志から松くい虫に強いクロマツの苗木の提供や駆除経費の支援があるなど、鹿児島県も協力しあって千本松原を保護する取り組みがなされています。
宝暦治水碑
桑名郡戸津村(現在の桑名市)の豪農・西田喜兵衛(にしだきへえ)の奔走と地元の人たちの篤志によって、1900年(明治33年)、千本松原の南端に建てられたのが『宝暦治水之碑』(写真上)です。140数年の永きにわたって闇に葬られていた薩摩義士の偉業と苦難の事実が、この碑の建立によって初めて公になりました。
平田靭負とヨハネス・デ・レーケ
近代土木技術によって、さらに木曽三川の分流工事を押し進め完成させたのが、ヨハネス・デ・レーケ(1842〜1913年)でした。明治政府に招かれて明治6年(1873年)に来日したオランダ人技師で、木曽三川分流工事をはじめ、多くの河川・港湾の設計や工事の指導をした。 「治水は治山にあり」という理念の下、分流工事だけでなく、山林の保護や砂防工事も提案した。明治11年2月、木曽三川流域を調査し、結果を『木曽川概説(がいせつ)』にまとめ、内務省に報告しました。これに基づき、明治20年(1887年)から木曽三川分流工事が開始、4期25年におよぶ大規模工事を経て、明治45年(1912年)に完成しました。この工事が終わってから、水害はいちじるしく少なくなったといわれます。滞在30年、日本の河川改修に一生を捧(ささ)げたデレーケは、明治36年(1903年)に日本を離れました。
宝暦治水工事
刀を鍬に持ち替えて〜薩摩義士像(治水神社内)
この像は、昭和56年(1981年)に、鹿児島ライオンズクラブ結成20周年の記念事業として、鹿児島ライオンズクラブが姉妹盟約の羽島ライオンズクラブを通じて、ゆかりの地、治水神社境内に建てたものです。薩摩義士の当時の姿が桜島から噴出した溶岩の台の上に再現されています。
    宝暦治水工事の概要

宝暦治水工事は、木曽川、長良川、揖斐川の三川分流を主眼とした治水工事で、一の手から四の手の四ヶ所に分けて実施されました。

一の手工事
木曽川の水流を弱めることが主な目的の工事で、猿尾(さるお)と呼ばれる堤を川の中に作りました。
猿尾は、岸から川の中央部に向って突き出した土手のようなもので、これで川の水勢を押さえます。
猿のしっぽのように突き出しているのでそう呼ばれます。

二の手工事
木曽川の河口付近の流れを変え、川の水をうまく海に流すことを目的に、筏川(いかだがわ)の
川上を幅90mに広げ、河口付近まで約1.5kmにわたり、川底の土砂を取り除く、いわゆる『川ざらえ』を主体とした工事。

三の工事
大槫川(おおぐれがわ)の氾濫を抑えることを主な目的として、水勢をやわらげるための洗堰(あらいぜき)を築造する工事。四の手の油島の締切堤防と同様の難工事だったといわれます。洗堰とは、水をその上から越流させるタイプの堰(せき)のこと。
四の手工事
木曽川と揖斐川を二つに分けることを目的に、油島の締切堤防が作られました。完成した当時は、付近の住民の強い要望で堤防の中間は開けてありました。宝暦治水工事の中でも最も難工事といわれた工事で、9月から翌年3月までかけて多大な労力と苦労の末完成した工事でした。


宝暦治水工事の効果と課題
宝暦治水工事による治水効果は三河川の下流地域300の村に及んだといわれます。

しかしながら皮肉にも、堤完成後には洪水の回数がむしろ増加しました。これは、完成した堤が川底への土砂の堆積を促したためと指摘されています。ヨハニス・デ・レーケによる近代土木技術を用いた本格的な治水工事(明治20年着工、明治45年完成)を待つこととなります。

宝暦治水工事では、三川の分流を主旨とした工事の概要が読み取れます(上の図)。現在の木曽三川は完全に分離されていることがわかります(下の図)。尚、宝暦治水工事の図は、木曽三川公園センター展示ホールで撮影のものから作成。
蛇篭(じゃかご)
宝暦治水では、川を埋めるときには石を使いましたが、水の勢いによっては石が流されていまいます。これを防ぐため竹で細長いかごを編みその中に石をたくさん詰めて重くし、川に沈めても流されないように工夫しました。これを蛇篭と呼びました。石の入った蛇篭を隙間なく並べ、その隙間にも石を詰めてゆくことによって激しい流れに負けない頑丈な石の壁を川の中に作っていきました(写真および文とも、木曽三川公園センター展示ホールで撮影)。
治水神社
木曽三川公園千本松原にある治水神社は、総奉行平田靭負を祭神とする神社です。正面には、大きな丸に十の字の島津家の家紋が掲げらているので、てっきり、薩摩藩(島津家)によって創建されたのだろうと思いますが、地元の人々の浄財によって、1927年(昭和2年)に起工、10年の歳月を経て、1938年(昭和13年)建立されたものです。工事の犠牲者となった薩摩藩士80余名も境内にある治水観音堂に祭られている。毎年、春(4月25日)と秋(10月25日)には義士の遺徳を偲び、慰霊祭が行われ、鹿児島からも多数の参加者があるそうです。
治水神社の境内には薩摩鶏と思われる鶏が遊んでいました(写真上)。
治水神社の境内にある全宝暦治水工事犠没者名を刻んだ石碑
治水神社にあった御園座(名古屋市中区栄一丁目)公演『孤愁の岸』(杉本苑子原作)のポスター(写真左)。平田靱負/古谷一行、伊集院十蔵/左とん平。写真右(平田靱負)は、木曽三川公園センター展示ホールで撮影。
育て松
『ぼくたちは、平成15年ここに千本松原の松ポックリより生まれた二世松(253年前の子孫)です。兄弟そろって、元気に、この地で生きています。りっぱな松に育つように見守って下さい。木曽三川千本松原を愛する会』とあります。治水神社境内で。

 木曽三川公園センター   宝暦治水之碑ものがたり  千本松原〜日向松の由来
あなたは累計
人目の訪問者です。
 
Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.