レポート  ・宝暦治水之碑ものがたり   
− 宝暦治水之碑ものがたり −
昔の濃尾平野は木曽(きそ)・長良(ながら)・揖斐(いび)の三大川が乱流していて、大雨のたびに、現在の大垣市墨俣(すのまた)町より南の地域は、一本の川になって氾濫し、地域住民はこの自然の威力にただただ逃げまどうばかりでした。
 
これに対して幕府は、大規模な治水工事を計画し、当時幕府につぐ強大な力を持っていた薩摩藩に、藩の財政力を弱めるため、その工事を命じました。いわゆる、『宝暦(ほうれき、ほうりゃく)の治水工事』と呼ばれるものです。
 
この工事で薩摩藩は、30万両とも40万両(現在の金額にして 300億円以上と推定)とも言われる大金と多くの犠牲者を出し、幕府役人の圧迫や病に苦しめられながら、血と涙と汗で見事に完成させました。
 
総奉行平田靭負(ひらたゆきえ)は、工事中に51名の割腹者と33名の病死者を出し、多額の費用を費やした責任を負い、1755年(宝暦5年)5月25日、割腹し果てました。時に52才でした。
 
この話しは、今でこそ宝暦治水薩摩義士伝としてよく知られていますが(少なくとも岐阜県と鹿児島県の人々には)、薩摩義士の偉業と苦難の事実は、明治33年(1900年)に『宝暦治水之碑』が建立されるまで、 140数年の永きにわたって闇に伏せられたままだったのです。
 
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総奉行平田靭負の指示で、工事完了を藩主に報告するため江戸薩摩藩邸に赴く手はずになっていた副奉行の伊集院十蔵は、総奉行が割腹して死亡したことを知るや、用人山元藤兵衛に、『平田殿は生存にて重病ゆえ、駕籠に乗せて京都の藩邸までお連れ申せ』と指示します。
 
そのときの様子を、瀬戸口良弘氏は、著書『霧の木曽三川淵』((株)ジェイボックス1999年8月初版)に、要約すると次のように書いています。
 
〜『では参ります』と頭を下げて踵(きびす)を返した山元藤兵衛を、伊集院は『待たれよ』と言って引き止め、治水工事でなくなった80余名の名前を記した帳面を渡そうとします。が、手を止めて、『いや、やはりこれは拙者が持って居る方が良かろう。山元殿行って下され』と言って帳面を自分の懐に差し込んだ。この名簿はその後どうなったか定かではないが、以来誰の目にも触れることはなかった。
 
『治水工事の一部始終を薩摩にて話を致してはならぬ、薩摩の衆は血気盛んな反骨者ゆえ一件が刺激になって、幕府に対して反旗を翻すやも知れぬゆえ。』 伊集院にはそうした危惧の思いがあった。
 
このことが、治水工事に従事した薩摩藩士の口を閉ざすことになり、悲しくも後々の世に至るまで、美濃における薩摩義士の功績を隠し、藩の記録簿にも記載されず、闇に葬り去る結果をもたらしたのであった。遥かなる美濃の地で目的達成のために散った若い薩摩義士の命は何のためで有ったのか。〜
 
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長年にわたって稼業を犠牲にして、宝暦治水工事の事蹟調査と顕彰に奔走した人がいました。宝暦治水が実施された揖斐川沿岸の村、桑名郡戸津村(現在の桑名市)に生まれ、後に西田家第11代当主になった西田喜兵衛(にしだきへえ)という人です。
 
宝暦治水工事が行われた当時の西田家の当主は、桑名郡北部地方の代官職であったことから、工事に深い関心を寄せ、薩摩藩士に住居を宿所として提供するなど、協力を惜しまない人でした。
 
明治時代に西田家当主となった西田喜兵衛は、『薩摩のご恩、忘るべからず』という父祖からの言い伝えを守り、生涯をかけて宝暦治水の顕彰活動に尽力します。そうした中で、治水工事による地元住民への恩恵の深さが明らかにされると、喜兵衛は記念碑建設に精力を傾注し始めます。
 
幾十回も上京を重ね、やっと記念碑の建設が実現し、千本松原の南端に大きな石碑が建てられました。1900年(明治33年)に、時の総理大臣山県有朋、内務大臣西郷従道のほか、数多くの高官の参列を得て除幕式が厳粛かつ盛大に挙行されました。
 
碑文の解説文には、里人が昔から洪水で苦しんできたこと、幕府は薩摩藩に治水工事を命じ、藩の財産三十万両を支出して工事を成したこと、難工事であり多くの困難を克服して完成を見たこと、これによって輪中地帯の水渦は減少したこと、のちの三川分流計画の基礎になったこと、事を終えた総奉行平田靱負は程なくして自刃したこと、他に前後して自害する者数十名あったこと、しかしその死因については記録なく明らかでないが、『工事の悩みは意外に多く、命令を果さずば止まぬの気概に満ち心痛の余りやむなく死に至った』と里人が言い伝えていること、百五十年を経た今でも里人は偉業を讃えることを忘れないでいること、などが記されています。
 
ここに至って初めて、薩摩義士の偉業と苦難の事実が公になったのでした。
 
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木曾三川公園と道をはさんですぐ南側の、千本松原の入口手前にある『治水神社』は、総奉行平田靭負を祭神とする神社ですが、檜造りの荘厳な社の正面には、大きな丸に十の字の島津家の家紋が掲げらていたので、てっきり、薩摩藩(島津家)によって創建された神社だろうと思っていましたが、地元の人々の浄財によって、1927年(昭和2年)に起工、10年の歳月を経て、1938年(昭和13年)に建立されたものでした。
 
木曽三川でのこうした動きを受けて、薩摩義士の出身地である鹿児島でも薩摩義士が顕彰されることになり、1920年(大正9年)に市内城山の麓に薩摩義士碑が建立されたのを皮切りに、義士祭典、事績調査、出版活動、木曽三川地域との交流事業などが行われました。
 
1971年(昭和46年)、鹿児島県と岐阜県の間に姉妹盟約が締結され、また鹿児島市と大垣市、霧島市と海津市など、鹿児島と岐阜との間では薩摩義士の偉業を機縁として、小中学生、青年、行政職員などの交流が今も進められています。
 

【参考にした書籍】
・瀬戸口良弘氏は、著書『霧の木曽三川淵』(株)ジェイボックス/1999年8月初版

 
【参考にしたサイト】
木曽三川治水偉人伝・西田喜兵衛
四ノ手工区・宝暦治水之碑と西田家
〔国土軸〕 太平洋新国土軸国づくり偉人伝 平田靭負
寳暦治水之碑
 
【備考】下記の旅行記があります。
旅行記 治水神社・千本松原 − 岐阜県海津市
旅行記 ・木曽三川公園センター − 岐阜県海津市
 


2007.09.05 
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