特集 | 山頭火 − 目次(INDEX) |
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− 種田山頭火 − |
種田山頭火(たねだ・さんとうか) (1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)
。山口県防府市の大地主の長男として生まれる。本名・種田正一。11才の時に母が井戸に身を投じて自殺、父は放蕩三昧という、さんざんな子供時代を過ごす。早稲田大学文学科に入学するが、酒と文学に溺れ、強度の神経衰弱のため中退して帰郷、父とともに種田酒造場を開業。
しかし、酒蔵の酒が腐敗するなどして経営危機に陥り、34才の4月、種田家破産とともに妻子を連れて熊本市に落ちのびる。熊本へ来たのは、熊本市に俳句雑誌を出す人々がいて、彼らを頼ってのことだった。 古書店『雅楽多書房』を開業するが、店は妻にまかせっ放しで自分は専ら酒を飲むばかりの生活だった。そして、大正8年、五高の関係で知り合った人を頼り上京するが、その後、弟二郎の自殺、妻サキノ(咲野)との離婚、父竹治郎の死去などもあって神経衰弱になるなどして、5年後再び熊本に戻る。 |
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熊本に戻った年の12月、泥酔して熊本市公会堂前を進行中の路面電車の前に立ちはだかり、電車をストップさせるという事件を起こす。山頭火の身の危険を案じた新聞記者によって、熊本市内の曹洞宗報恩寺まで連行され、翌年、寺の住職を導師として出家得度し、大正14年3月、43才のとき、熊本県植木町の味取(みとり)観音堂(曹洞宗瑞泉寺)堂守となり、読経と句作の独居を続けた。しかし、味取観音堂の堂守も1年2ヵ月しか続かず、44才の大正15年の春4月、『解くすべもない惑ひを背負う』、行乞(ぎょうこつ)流転の旅に出る。漂泊の俳人の始まりだった。 |
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大正十四年二月、いよいよ出家得度して 肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、 それはまことに山林独住の、 しづかといへばしづかな、さびしいと思へば さびしい生活であつた。 松はみな枝垂れて南無観世音 松風に明け暮れの鐘撞いて ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる 大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、 行乞流転の旅に出た。 分け入つても分け入つても青い山 しとどに濡れてこれは道しるべの石 炎天をいただいて乞ひ歩く ・ ・ ・ (種田山頭火句集「草木塔」鉢の子より) |
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昭和15年、四国松山の一草庵で、58才の生涯を閉じるまで全国を放浪し、生涯あわせて八万四千句にのぼる句を詠んだといわれている。『鉢の子』をはじめ七句集やぼう大な日記類があり、『山頭火全集』まで出版されており、日本の俳句史上特異の地位を占めている。 |
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