♪花の歌(ランゲ)
ぴあんの部屋
人吉、あさぎり町 〜 山頭火を歩く(8)− 熊本県
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佐敷から球磨川づたいに五里を歩いて人吉に着いた山頭火は、人吉町宮川屋に三泊して人吉を行乞して回ります。捨てても捨てても捨てきれないものが未だ乱れ雲のやうに胸中を右往左往してやみません。時は昭和5年(1930年)9月。昭和恐慌の真っ只中で労働争議やデモが頻発し浜口首相が東京駅で狙撃されるという時代でした。行乞記に忌憚なく記述された百姓や養蚕農家や日雇い労働者などの窮状、遊女への情、老祖母への思いなどから、山頭火の心情とともに当時の世相がひしひしと伝わってきます。人吉市とその近隣の町、球磨郡あさぎり町の風景をアップしました。                       (旅した日 2008年09月)
    
    
人吉
水の手橋から球磨川の下流を眺める人吉市内の遠景
九月十五日 曇后晴、当地(人吉町)行乞、宿は同前(宮川屋)
昭和5年(1930年)9月14日〜16日、人吉町宮川屋に三泊して人吉を行乞しています。 
 けふはずゐぶんよく歩きまはつた、ぐつたり労れて帰つて来て一風呂浴びる、野菜売りのおばさんから貰つた茗荷を下物に名物の球磨焼酎を一杯ひつかける、熊本は今日が藤崎宮の御神幸だ、飾馬のボシタイ/\(注1)の声が聞えるやうな気がする、何といつても熊本は第二の故郷、なつかしいことにかはりはない。(注1:熊本市の藤崎宮秋の例大祭における当時の掛け声)
 
 あはれむべし、白髪のセンチメンタリスト、焼酎一本で涙をこぼす!
この宿はよい、若いおかみさんがよい、世の中に深切ほど有効なものはない、それにしても同宿の支那人のやかましさはどうだ、もつと小さい声でチイ/\パア/\
(注2)やればよいのに。(注2:麻雀のことのようです。)    〜『行乞記(一)』(種田山頭火)より抜粋、以下も同じ

    種田山頭火
   

鍛冶屋町通り(写真上)
球磨焼酎は人吉球磨地方産の米のみを原料として、良質な地下水で仕込んだもろみを蒸留した焼酎です。現在28の蔵元があります。寿福酒造(写真下)は人吉城址のすぐたもとにあり、明治23年の創業。球磨焼酎ただ一人の女性杜氏がいる蔵としても知られ、頑固なまでに唯一常圧蒸留のみにこだわっている蔵元です。
人吉の町並み
相良藩時代、66軒の鍛冶屋が軒を並べ、刃物や銃、農具などの一大産地だった鍛冶屋町通りは、今も2軒の鍛冶屋が現存するほか、昭和6年創業の味噌醤油蔵などが昔の面影を残す町筋です(写真左)。鍛冶屋町通りの近くにある人吉の飲み屋筋(写真下)にもどこか懐かしい雰囲気が漂っています(写真下)。
人吉の飲み屋筋(写真下)
寿福酒造(写真下)
けふもよく辛抱した、行乞相は悪くなかつたけれど、それでも時々ひつかゝつた、腹は立てないけれど不快な事実に出くわした。人吉で多いのは、宿屋、料理屋、飲食店、至るところ売春婦らしい女を見出す、どれもオツペシヤン(注3)だ、でもさういふ彼女らが普通の人々よりも報謝してくれる、私は白粉焼けのした、寝乱れた彼女からありがたく一銭銅貨をいたゞきつゝ、彼女らの幸福を祈らずにはゐられなかつた、――不幸な君たち、早く好きな男といつしよになつて生の楽しみを味はひたまへ!(注3:オッペシャン=不別嬪、不美人のこと)
 
***
      
田舎まはりの仲買人から、百姓衆の窮状を聞かされた、此旧盆を迎へかねた家が多いさうな、此辺の山家では椎茸は安いし繭は安いし、どうにもやりきれないさうな、桑畑をつぶしてしまひたいけれど、役場からの慰撫によつて、やつと見合せてゐるさうな、また日傭稼人は朝から晩まで汗水垂らして、男で八十銭、女で五十銭、炭を焼いて一日せい/″\二十五銭、鮎(球磨川名産)を一生懸命釣つて日収七八十銭(注4)、――なるほど、それでは死なゝいだけだ、生きてゐる楽しみはない、――私自身の生活が勿躰ないと思ふ。(注4:昭和5年当時の物価は、米10キロ2円30銭、映画50銭、ラーメン10銭ぐらいだったようです。)
二番札所 中尾観音
一昨夜も昨夜も寝つかれなかつた、今夜は寝つかれるといゝが、これでは駄目だ、せつかくアルコールに勝てゝも、カルモチン(注5)に敗けては五十歩百歩だ。二三句出来た、多少今までのそれらとは異色があるやうにも思ふ、自惚かも知れないが。―― (注5 : 当時処方箋が無くても購入可能だった睡眠薬で武田薬品工業の商品名)
 
   かな/\ないてひとりである
   一すぢの水をひき一つ家の秋
   焼き捨てゝ日記の灰のこれだけか

 
今日は行乞中悲しかつた、或る家で老婆がよち/\出て来て報謝して下さつたが、その姿を見て思はず老祖母を思ひ出し泣きたくなつた、不幸だつた――といふよりも不幸そのものだつた彼女の高恩に対して、私は何を報ひたか、何も報ひなかつた、たゞ彼女を苦しめ悩ましたゞけではなかつたか、九十一才の長命は、不幸が長びいたに過ぎなかつたのだ(彼女の老耄と枝柿との話は哀しい)。
あさぎり町・了円寺
球磨郡あさぎり町の了円寺(写真上)
山頭火は深田中学校南側の球磨川でアヒルを見て浅瀬を渡ったといわれます(あさぎり町公式サイト参考)。尚、れいろう(玲瓏)とは、玉のように美しく輝くさま、さえて鮮やかなさまです。
 
     二三人はゐて
     薪山のひるどき  寸鶏頭
 
 
川津寸鶏頭は、明治36年(1903年)生まれで萩原井泉水の主宰する新傾向俳句機関誌『層雲』の同人でしたが、昭和6年(1931年)に29歳の若さで病死。
昭和5年山頭火は、球磨郡あさぎり町の浄土真宗本願寺派寺院・了円寺の二代目住職で山頭火の句友だった川津寸鶏頭を訪ねます。そのとき半折に書き残した句が掛け軸として了円寺に残されています。
 
     れいろうとして
     水鳥はつるむ   山頭火
 
但し、昭和5年の春ということですから、山頭火は昭和5年に二回人吉球磨地方を訪れていることになります。この句は句集『草木塔』・ 鉢の子に収録されています。
宮原観音
標高1,017mの黒原山(写真上)
三十三観音のうち7つの観音があさぎり町にあります。二十九番札所の宮原観音は、気品を感じさせる茅葺き屋根の木造建築。室町時代から桃山時代の建立といわれ、本尊の聖観音は江戸時代の作で、不動明王と毘沙門天が脇士として祀られています。堂宇は厨子とともに県指定文化財。
 
人吉球磨地方の美しい自然に溶け込むように点在する『相良三十三観音』は、鎌倉時代創建の観音像が安置された33の観音札所で、現在に至るまで人吉・球磨地方に住む人々に愛され大切にされてきました。春と秋の彼岸に、全ての観音堂が一斉に開帳され、県内外から多くの人たちが巡礼に訪れ賑わいます。
二十九番札所・宮原観音(写真下)
二十九番札所・宮原観音(写真下)
  
※ 行乞記(種田山頭火)は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)の『行乞記(一)』
(底本等のデータは下記の通り)から抜粋して記載してあります。
底本:「山頭火全集 第三巻」春陽堂書店
   1986(昭和61)年5月25日第1刷発行
   1989(平成元)年3月20日第4刷
入力:さくらんぼ
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年3月20日作成
   
      
 球磨川づたひ 〜 山頭火を歩く(7)
   
    
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