レポート  ・山頭火と金子みすゞ   
− 山頭火と金子みすゞ −

平年より寒かった冬を引きずっているかのように春寒の続く今年(2006年)の3月末、天気の良い暖かい日を見計らって、熊本県八代市の日奈久(になぐ)に出かけました。日奈久は、熊本県で最も古い温泉場(1409年湧出)で、人と車がやっと離合できるぐらいの狭い道路の両側に家々が軒を連ねた街並みが、歴史ある温泉場の雰囲気を今に伝えています。
 
                   1.日奈久
 
日奈久は、漂泊の俳人・種田山頭火(1882・明治15年〜1940・昭和15年)由来の町でもあります。山頭火は、昭和5年9月、日奈久を訪れて織屋(おりや)という木賃宿に3泊しました。その宿が当時の姿のまま残されていて、昔の旅の様子をしのぶことができるのです。山頭火は諸国を放浪し、方々で木賃宿に泊まりましたが、織屋だけが現存する唯一の建物となっています。
 
日奈久の街を歩くと、方々の家の軒先に、丸太を薄く切って作った板に山頭火の句を書いて吊るしてあります。この光景は、童謡詩人・金子みすゞが生まれ育った山口県長門市仙崎を思い出させます。仙崎の街でも同様にみすゞの詩が吊るしてあるのです。
 
                   2.金子みすゞ
 
母の再婚先である下関市の上山文英堂(書店)で店番をしながら詩を書き始めた金子みすゞ(1903・明治36年〜1930年・昭和5年)は、西条八十に認められ、23才の若さで北原白秋、野口雨情、三木露風、若山牧水など錚々(そうそう)たる面々が顔を連ねる「童謡詩人会」の会員に推挙され、一躍当時の童謡詩人たちの羨望の的となりました。
 
しかし、放蕩の夫にうつされた病気や夫からの断筆の強要、離婚後の娘の親権剥奪などの苦しみのなかで、昭和5年3月10日にみずから26才の命を絶ちました。その後、みすゞの作品は忘れ去られ、512編の遺稿が見出され注目をあびるようになったのは、半世紀を過ぎた1982年(昭和57年)のことでした。
 
みすゞの死後50年以上が過ぎ、法的には著作権は切れていますが、作品発掘の労と遺族に報いるため、金子みすヾ著作保存会が作られ、作品は著作保存会の承諾を得て引用するようになっています。  
 
                     3.山頭火
 
一方、山口県防府市の大地主の長男として生まれた山頭火(本名・種田正一)は、11才の時に母が井戸に身を投じて自殺、父は放蕩三昧という、さんざんな子供時代を過ごします。早稲田大学文学科に入学しますが酒と文学に溺れ、強度の神経衰弱のため中退して帰郷、父とともに種田酒造場を開業します。
 
しかし、酒蔵の酒が腐敗するなどして経営危機に陥り、34才の4月、種田家破産とともに妻子を連れて熊本市に落ちのびます。熊本へ来たのは、熊本市に俳句雑誌を出す人々がいて、彼らを頼ってのことでした。
 
古書店「雅楽多書房」を開業しますが、店は妻にまかせっ放しで自分は専ら酒を飲むばかりの生活でした。そして、大正8年、五高の関係で知り合った人を頼り上京しますが、その後、弟二郎の自殺、妻サキノ(咲野)との離婚、父竹治郎の死去などもあって神経衰弱になるなどして、5年後再び熊本に戻ってきました。
  
熊本に戻った年の12月、泥酔して熊本市公会堂前を進行中の路面電車の前に立ちはだかり、電車をストップさせるという事件を起こします。山頭火の身の危険を案じた新聞記者によって、熊本市内の曹洞宗報恩寺まで連行され、翌年、寺の住職を導師として出家得度しました。そして、大正14年3月、43才のとき、熊本県植木町の味取(みとり)観音堂(曹洞宗瑞泉寺)堂守となりました。
 
しかし、味取観音堂の堂守も1年2ヵ月しか続かず、44才の大正15年の春4月、「解くすべもない惑ひを背負うて」、行乞(ぎょうこつ)流転の旅に出ます。漂泊の俳人の始まりでした。昭和15年、四国松山の一草庵で、58才の生涯を閉じるまで全国を放浪し、生涯あわせて八万四千句にのぼる句を詠んだといわれています。
 
*****
   
大正十四年二月、いよいよ出家得度して
肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、
それはまことに山林独住の、
しづかといへばしづかな、さびしいと思へば
さびしい生活であつた。
  
松はみな枝垂れて南無観世音
 松風に明け暮れの鐘撞いて
ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる
  
大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、
行乞流転の旅に出た。
分け入つても分け入つても青い山
しとどに濡れてこれは道しるべの石
炎天をいただいて乞ひ歩く



 (種田山頭火句集「草木塔」鉢の子より) 
  
               
                4.山頭火と金子みすゞ
 
金子みすゞの出身地は、日本海に面した山口県仙崎。一方、山頭火の出身地は瀬戸内海に面した、やはり山口県の防府。不遇のうちに世を去ったみすゞと不遇の生涯を送った山頭火。しかし、今なお多くの人に感動を与え続けて止まない詩人と俳人を同時代に同じ山口県が輩出しているのは面白いですね。
 
二人の年譜をつき合わせてみると、みすゞが自らの命を絶った昭和5年は、山頭火が同年9月、八代、日奈久を出発して『行乞記』を記し始めた年です。そして、山頭火は、みすゞの生まれ故郷仙崎を昭和8年に訪れています。
 
詩や俳句に絵画を添えた書画で人気があるのは、やはり山頭火や金子みすゞでしょう。二人の作品が親しまれるのは、だれにでもわかる平易な表現で感動を与えるからでしょう。
 
昭和5年9月、八代、日奈久を皮切りに、全国行乞の旅に出発するに際して、山頭火は、それまでの日記はすべて燃やしてしまいましたが、この後からは『行乞記』として、自分の足取りをつぶさに日記に記し、旅先からは必ず友人に葉書を宛て、また写真も多く残しています。
 
山頭火が愛されている理由の一つには、自分たちの町を訪れているという嬉しさがあるからではないでしょうか。それも山頭火が、自分の足取りを綿密に日記に残しているからこそです。
 
そして、死後50年以上が過ぎ著作権が消滅している現在、句集『草木塔』や『四国遍路日記』など、山頭火の作品をインターネット電子図書館『青空文庫』などで、無償で閲覧でき、また複製し再配布することができることはうれしいことです。
 
【備考】
(1)この記事を書くに際して、下記のサイトなどを参考にしました。
  ・山頭火・年表
    → http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/6788/nenpyo.html
  ・ふるさと寺子屋塾<No.15>「山頭火と熊本」
    → http://cyber.pref.kumamoto.jp/renmei/magazine_terakoya
(2)青空文庫で、山頭火の次の作品を読むことができます。
  ・種田山頭火句集「草木塔」
    → http://www.aozora.gr.jp/cards/000146/files/749.html
  ・四国遍路日記
    → http://www.aozora.gr.jp/cards/000146/files/44914_18742.html
(3)金子みすゞについては、下記ページに旅行記があります。
  ・旅行記 ・金子みすゞを訪ねて(1) − その作品から
    → http://washimo-web.jp/Trip/misuzu/works/misuzu-works.htm


(4)下記の旅行記があります。併せてご覧下さい。
  ◆旅行記 ・味取観音堂 〜 山頭火を歩く(1)−熊本県植木町
  ◆旅行記 ・日奈久 〜 山頭火を歩く(2) − 熊本県八代市
  ◆旅行記 ・佐敷 〜 山頭火を歩く(3) − 熊本県芦北町

2006.04.05
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