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小倉処平の史跡を訪ねて − 宮崎県
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江藤淳は、著書『南洲残影』(文藝春秋社、)でいわく、西南戦争における官軍と薩軍の対決は、決して開明派と土着派の対決などという、単純な図式で割り切れるものではあり得なかった。西洋をよく知りながら西郷の軍に投じた者もいたのであると。英国・フランスに学び、同郷の後輩小村寿太郎の目を世界に向かせ、大きな影響を与えた『飫肥の西郷』・小倉処平(おぐらしょへい)もその一人でした。小倉処平由来の史跡を、宮崎県日南市飫肥(おび)と宮崎県延岡市に訪ねました。『レポート ・小倉処平 〜 西南戦争人物伝(2)』と共にご覧下さい。  (旅した日 2007年11月)


飫肥(おび)
飫肥は、天正16年(1588)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏の5万1千石の城下町として栄えたところです。初代藩主は伊東祐兵(すけたけ)。戦国時代、84年間にわたって伊東、島津の覇権争いが続いたが、豊臣秀吉より九州征伐の功績により、飫肥が与えられました。 飫肥城を中心に現在も残る武家屋敷、石垣、庭園などの史跡や商家造りの建物などが当時の面影をとどめていて、1977年(昭和52年)に、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

武家屋敷通りである馬場通り(写真上)は、
飫肥藩屋敷の典型的な姿を色濃く留めています。
飫肥城の1978年(昭和53年)に復元された大手門(写真上)を中心に、飫肥城跡内の松尾の丸や伊東家の歴史を綴る貴重な資料が展示されている『飫肥城歴史資料館』、等があります。また、武家屋敷通りの裏には、藩校・振徳堂の屋敷と建物が残されています。

武家屋敷通りの一画に
小村寿太郎生家(写真左)があり、大手門近くに国際交流センター小村記念館があります。


飫肥藩校・振徳堂(しんとくどう)

振徳堂は、飫肥藩の藩校で、天保2年(1831年)に13代藩主の伊東祐相公によって造られたもの。孟子の教えにある『又従而振徳之』(また疑いてこれを振徳せり)より振徳堂と名づけられた。教授には安井清州、息軒親子らの学者を招き、教育につとめた。『人の人たる道を修業すること』を校風とし、後に外交官として活躍する小村寿太郎の骨格を成す人格『私欲を捨て、正直で誠実に生きる』はこの振徳堂で育まれた。明治維新後は小学校、女学校、青年学校などに使われたが、西南戦争では飫肥隊の兵站部(へいたんぶ)となり、銃弾の製造が行われたこともあった。



小倉処平(おくらしょへい)
          小倉処平 年譜

1845年(弘化3年)
飫肥藩の中級藩士・長倉喜太郎のニ男として生まれ、少年期、藩校振徳堂に学ぶ。
1863年(文久2年)
18歳のとき同藩士小倉家の養子となる。
1864年(元治元年)
藩命で京都に出て藩外交に当たる。帰藩後、振徳堂の句読師となる。江戸に出て、安井息軒に学び、陸奥宗光らと交流を得る。
1869年(明治2年)
小村寿太郎らを引率して長崎に公費留学させ、 さらに、大学南校(現東京大学)に小藩からも学生を出す『貢進生制度』を実現させ、寿太郎を入学させる。
1871年(明治4年)2月〜1873(明治6)年冬
官命によって、英国・フランスに留学するが、国内で征韓論が決裂したことを知ると急遽帰国。西郷隆盛らが下野すると、自らも飫肥に帰郷。
1874年(明治7年)
佐賀の乱が勃発。リーダーの江藤新平らを飫肥から土佐へ逃亡させ、その罪で禁錮刑に服すが、のちに大蔵省七等出仕となる。
1877年(明治10年)
2月西南戦争が勃発すると、飫肥隊の総帥として、人吉撤退後は野村忍介率いる奇兵隊の奇兵隊軍監として各地を転戦。8月15日の和田越の決戦で大腿部に銃創。8月17日、32歳の若さで自刃。
写真は、飫肥藩校・振徳堂の敷地内に建てられている『小倉処平顕彰之碑』


西郷宿陣と可愛岳(えのだけ)
8月15日、『和田越の決戦』(現宮崎県延岡市)に敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置き、翌16日に西郷隆盛は解軍の令を出し、可愛岳(えのだけ)突囲(包囲を突破すること)を決意します。17日夜10時、精鋭約600名が登山を開始。写真は、児玉熊四郎宅。その背後に見えるのが可愛岳。


小倉処平 加療・自刃の地
8月15日、西南戦争最後の決戦『和田越の決戦』(現宮崎県延岡市)において、薩軍3,500に対して、政府軍は5万の兵で攻撃。この戦いで小倉処平は、大腿部に銃創を受けて負傷。敗走後、延岡市川坂の神田伊助氏宅(写真左)に逃れて加療。

一方、敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた西郷隆盛は翌16日、解軍の令を出し、可愛岳(えのだけ)突囲(包囲を突破すること)を決め、約600名の瀬精鋭部隊が17日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始める。




写真上は、小倉処平加療の地にある鳥居から見る可愛岳の遠望(鳥居の真ん中に頂上が見える山)。

神田伊助氏宅で加療中、西郷の可愛岳突囲を知った小倉処平は
西郷の後を追ったものの果たせず、可愛岳登山口のある地区から南へ約1kmのところにある高畑山の中腹で自刃。惜しまれる32歳の若さでした。

小倉処平の自刃から55年後に自刃の場所が踏査されたのにもかかわらずその後42年間、何も碑が建てられていないのを嘆いた有志が1974年(昭和49年)に、
『飫肥西郷小倉処平自刃之地』の碑(写真下)を建てました。



高畑山中腹に建てられた『飫肥西郷小倉処平自刃之地』の碑(写真下)とそこへの案内杭(写真右)。

 レポート ・小倉処平 〜 西南戦争人物伝(2)
 西南戦争史跡〜可愛岳  村田新八  飫肥(おび)〜油津
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