レポート | ・国のはじまりと歴史 − シンガポールについて(1) |
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国のはじまりと歴史 − シンガポールについて(1) | |||||
1.プロローグ シンガポールの創設者トーマス・ラッフルズ卿が1819年にシンガポールをジョホール王国から譲り受けたとき、シンガポールはライオンの町と呼ばれる、漁民 200人ほどが住む島でした。 イギリス植民地時代、そして戦後の独立を経て、淡路島ほどの大きさの国土に 420万余の国民が住み、食料も資源も皆無の国は、今や国民一人当りの国民総生産( GDP )が日本、香港についでアジア第3位という経済規模を誇るとともにアジア有数の観光大国になりました。 1963年に、マレーシア連邦から「足手まといだ」と見捨てられるようにして分離独立せざるを得なかった危機存亡の中で、初代首相リー・クアンユー氏は、通商都市国家として生きていく道を選択します。 資源なし食料なしの希望のもてない多民族国家がそれを実現するためには民主主義を標榜する余裕はありませんでした。明確な意識と目標と統制の下に実行された独自の国づくりは、リー氏が未来像として描いた、公園のように美しい近代国家(ガーデンシティ)を実現させました。 シンガポール独自の国づくりの背景にあるシンガポールの国のはじまりと歴史についてレポートします。 2.国のはじまり 19世紀初頭のシンガポールは、ジョホール王国(現マレーシアジョホール州)のサルタン(君主)の支配下で漁民 200人ほどが住む島で、シンガプーラ(Singapura )と呼ばれていました。 シンガプーラとは、「ライオンの町」という意味のサンスクリット語で、シンガポールのシンボルである、上半身がライオン、下半身がマーメイド(人魚)の形をした像・マーライオンは、これに由来します。 当時、インドに拠点を置いていたイギリス東インド会社(1600年〜1874年)の副総督だったトーマス・ラッフルズ卿( Sir Thomas Stamford Raffles、1781〜1826年)は、良好な交易拠点を探すため、1819年1月、シンガプーラに上陸します。 シンガプーラの地理的利点を即座に見抜いたラッフルズ卿は、翌月には、ジョホールのサルタンからこの島を借り受ける契約を交し、島の呼び名を英語風にシンガポール(Singapore) と改めます。そして、5年後の1824年、シンガポールは、サルタンからイギリス東インド会社へ譲渡され、さらに2年後の1826年には、マラッカおよびペナンとともにイギリス植民地となりました。 ・地図でシンガポールとマレーシアの位置を確認する。 → http://washimo-web.jp/Information/Singapore-map.htm 東南アジア地域の交易中心地となったシンガポールには、商機をねらう裕福な華僑やインド商人のほか、職を求める中国系労働者などが集まってきました。イギリスもシンガポール島の発展のため、労働力として中国人やインド人を移住させました。その結果、1871年には全人口の65%を中国人が占めるようになりました。 現在でも、シンガポールの人口構成は、中国系が76.7%、マレー系が14%、インド系が7.9%、その他が1.4%となっています。 3.独 立 1941年、太平洋戦争に突入した日本は、1942年2月から3年半にわたってシンガポールを占領しますが、敗戦によって1945年、シンガポールは再びイギリス統治下に戻ります。 その後、1959年に自治領となり、1963年にはイギリスから独立して、マレーシア連邦の一員としてマレーシアの傘下に入ろうとしますが、マレーシア連邦が強大になることをおそれたインドネシアやフィリッピンがそれに反対します。 そして、内部では、経済政策をめぐる考え方の違いやマレー人と華人の人種対立が表面化し、マレーシア中央政府はマレーシア国家を崩壊させないためにシンガポールを連邦から除外することを決めます。 太平洋の荒波に放り出される形でシンガポールは、1965年、マレーシアから分離独立し、リー・クアンユー氏( Lee Kuan Yew、李光耀、1923年〜 )が初代首相に就任します。シンガポールは、資源どころか日常の食料品や飲料水さえ皆無の国で、大半をマレーシアに頼っていたから大変です。 加えて、シンガポールの総貿易の1/3近くを占めていたインドネシアとは貿易を停止したままの状態にあり、さらに追い打ちをかけるように、1968年にイギリス駐留軍が撤退します。軍事面だけでなく、経済面でも大打撃でした。 4.生き残りのイデオロギー そのような、国家存亡の危機のなかで、リー・クアンユー氏は、通商都市国家として生きていく道を選択します。リー氏率いる人民行動党(PAP)が掲げたのは「生き残りのイデオロギー」スローガンでした。その政策は、政府への批判を徹底的に抑制することで、国家への凝集性を高めようというものでした。 PAPの権威主義的な独裁体制下で、チャンギ空港のハブ空港整備、関税廃止、教育水準の向上、チューインガム禁止、落書きにはムチ打ち刑、公道上での泥酔禁止、拳銃の発射や麻薬持ち込みは死刑などのマナー管理政策などを進め、その結果、アジアでも有数の経済発展を成し遂げたのです。 5.エピローグ シンガポールは、現在でも一党独裁の国です。独裁という言葉には、どこか恐怖感を与える響きがありますが、むしろ、当たり前のことが当たり前に守られていることの心地よさが随所で感じられるというのが、シンガポールを旅しての実感でした。 独裁体制については、(1)国家存亡の危機の中で、生き残るためには民主主義を標榜する余裕などなかった、(2)開発途上の段階で、限られた資源を有効な分野に集中配分するには、産業民主主義体制よりもむしろ権威主義体制が適していた、そして(3)「独裁」が経済発展の一段階として肯定的に評価されたということでしょうが、経済先進国・観光大国を達成したこれからはどうなのでしょうか。 シンガポールの「第二の選択」(民主主義体制の選択)に言及しているサイトもあるようですが、実際のところどうなのでしょうか? 門外漢の著者が知る由もありませんが、独自の国づくり、運営、そして経済など、シンガポールはこれからも興味の尽きない国です。 【参考にしたサイト】 [1]シンガポール:フリー百科事典『ウィキペディア』 |
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2005.10.12 | |||||
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