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旅行記 ・寺島宗則記念館 − 鹿児島県阿久根市  2021.02
寺島宗則記念館
脇本湾と寺島(改名の由来とされる)
ようこそ寺島宗則記念館へ 本日は、寺島宗則記念館へお越しいただき、ありがとうございます。ここ、阿久根市脇本は寺島宗則(松木弘安)のふるさとです。激動の幕末期にこの浦町に生まれ、幼くして長崎で最先端の西洋文明に触れた寺島は、藩主島津斉彬の指導のもとでさまざまな科学技術の導入に手腕を発揮します。
寺島宗則記念館(寺島宗則の旧家)
やがて、日本の近代化を担った薩摩スチューデントの随行者としてイギリスに渡り、彼らを引率しながらさまざまな交渉や産業機械の買い付けに従事しました。帰国後、外務卿として外交にあたるなど、寺島宗則の人生は、近代日本の成立に活躍した人生でした。
寺島宗則記念館の幟旗
現在、薩摩スチューデント一行19名ゆかりの家屋が残るのはここだけで、大変貴重な建物となっております。本日はぜひ、館内で寺島の生き様やその功績に触れ、風光明媚な脇本浦と寺島の景観を楽しみながらごゆっくりお過ごしください。(以上、寺島宗則記念館の玄関案内板より転載)
寺島宗則記念館(築180余年の古民家)
松木弘安(寺島宗則)養母建立の石塔 ここには宗則の母ヤヲが建立した小さな石塔があります。上部には左に薩摩固有の石像である田の神、右に御幣を持つ神像が彫られ、碑文には 嘉永元年七月十五日 奉安地御田之神□ 松木弘安 母 と刻まれています。近隣には同様に松木弘安 母と銘記のある地蔵菩薩像が同日に建立されているなど、信心深い養母ヤヲの思いを見ることができます。(案内板(下の写真)より転載)
義母建立の石塔の説明板
寺島宗則の旧家公開 幕末維新期に活躍した阿久根市出身の寺島宗則旧家の老朽化していた家屋を市が記念館として整備し、令和2年(2020年)4月より一般公開を始めました。 縁側から名字の由来となった『寺島』が間近に浮かぶ脇本湾を見渡せます。管理されている地元住民らは『寺島の原風景を味わってほしい』と来館を呼び掛けています。
義母建立の石塔
旧家は寺島が幼少期を過ごした養家・松木家の邸宅で、筑後180年以上が経過。市が松木家から建物を無償で譲り受け、土地を購入し、瓦や一部の柱を取り換えるなど約6600万円をかけて改修しました。表座敷を縁側が囲み、江戸や明治の柱が使われるなど旧家のたたずまいを残しています。
玄関の庇
寺島会の活動 管理を委託されている地元の住民グループ寺島会(会長・跡上岩市さん)は、明治維新 150年を前に、日本の近代化に貢献した寺島宗則の功績を後世に伝えるため、幼少期を過ごした旧家の保存・活用に取り組みたいと平成28年9月に結成し、現在70人で活動。火曜日を除く午前10時〜午後5時に一人常駐されています。
寺島宗則が薩摩そして日本のために果たした功績を知って欲しいと心に響く紙芝居で伝える『紙芝居班』、おいしいお茶菓子と素敵な笑顔でお迎えする『おもてなし班』、ニーズに合わせて臨機応変に案内を行う『ガイド班』の3班で来館される方への対応を行っています。予約すれば紙芝居や茶菓子も楽しめます。
資料展示
        寺島宗則 略年表
  
1832(天保3)年 阿久根市脇本字槝之浦に生まれる
1836(天保7)年 伯父で蘭方医松木宗保の養子となる
        (同年、蘭学を学びに長崎へ)
1841(天保10)年 養父と藩主・島津斉興に拝謁
1846(弘化3)年 江戸遊学を命じられ川本幸民に学ぶ
1855(安政2)年 中津藩江戸藩邸の蘭学塾に出講
        (慶應義塾の前身)
1856(安政3)年 幕府の蕃書調所教授手伝となる
1857(安政4)年 藩主・島津斉彬の侍医となる
        斉彬の命により集成館事業に従事
1859(安政6)年 蕃書調所教授手伝に復職
1862(文久2)年 幕府の第1次遣欧使節(通訳兼医師)
1863(文久3)年 薩英戦争でイギリス軍の捕虜となる
1865(慶応元)年 薩摩藩英国留学生を引率
        (イギリス外務省との外務交渉)
1867(慶応3)年 版籍奉還の建白書を藩主に提出
        寺島宗則と改名(名は寺島に由来)
1868(明治元)年 参与。東京・横浜間の電信開設の
        建議。初代神奈川県知事
1868(明治元)年 スペインとの修好通商航海条約締結
1869(明治2)年 京浜間に最初の電信事業を開業
1871(明治4)年 ハワイ王国との日布通商条約締結
1872(明治5)年 初代の在イギリス日本公使
1873(明治6)年 参議兼外務卿(外務大臣)
1879(明治12)年 文部卿(文部大臣)
1881(明治14)年 元老院議長
1882(明治15)年 在米日本全権公使
1884(明治17)年 伯爵
1888(明治21)年 枢密院副議長
1889(明治26)年 62歳で死去。品川海晏寺墓地に埋葬
阿久根が生んだ明治外交のパイオニア・寺島宗則
 
寺島 宗則(てらしま むねのり)
1832年(天保3年)〜1893年(明治26年)。日本の政治家。爵位は伯爵。元は松木 弘安(まつき こうあん)。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。(以下、寺島宗則 - Wikipedia より転載)。
築180余年の古民家の風情
天保3年(1832年)、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現・阿久根市脇本字槝之浦)の郷士・長野成宗の次男として生まれる(幼名徳太郎、後に藤太郎)。5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学ぶ。弘化2年(1845年)、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学ぶ。
一部取り換えられた梁
安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する。安政3年(1856年)、蕃書調所教授手伝となった後、帰郷し薩摩藩主・島津斉彬の侍医となったが、再度江戸へ出て蕃書調所に復帰した。蕃書調所で蘭学を教える傍ら、安政4年(1857年)から英語を独学しはじめる。
がっしりとした梁
安政5年(1858年)に横浜で貿易実務に関わったことをきっかけに、翌安政6年(1859年)から本格的に英語を学ぶ。文久元年(1861年)には、英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として、福澤諭吉、箕作秋坪とともに抜擢された。文久2年(1862年)、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わる。
寺島宗則記念館から脇本湾を見る
この時、欧州でオランダ語がまったく重要視されていないことを知り、英学派に転ずる。翌年に帰国して鹿児島に戻る。文久3年(1863年)の薩英戦争においては五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる。慶応元年(1865年)、薩摩藩遣英使節団に参加し欧州を再訪。渡欧中にはイギリス外務省との外交交渉などを行った。
畳間と資料展示
明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。慶応3年(1867年)11月、全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出。明治元年(1868年)にはスペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり、同4年(1871年)にはハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任される。
資料展示
明治5年(1872年)、初代の在イギリス日本公使となる。明治6年(1873年)参議兼外務卿となる。政府の財政難から関税自主権回復を目指し、諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対やドイツ船ヘスペリア号事件などもあって条約改正への希望を挫折せざるを得なくなり、明治12年(1879年)に外務卿を辞職。
寺島宗則の旧家(明かり取りが見えます)
その後、文部卿、元老院議長、在アメリカ日本公使、枢密顧問官、枢密院副議長などを歴任した。明治17年(1884年)には伯爵に叙され、翌年には東京学士会院会員となった。明治26年(1893年)、62歳で死去。昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生の像『若き薩摩の群像』の一人として銅像が建てられている。
案内板と幟旗(国道389号)
【参考資料およびサイト】
(1)寺島宗則記念館の玄関説明板
(2)松木弘安(寺島宗則)の功績を伝えたい「寺島会の活動」 まちの活動 みんなのアルバム(現地に掲示のチラシ)
(3)寺島宗則の旧家公開(現地に掲示の令和2年5月31日の新聞記事(南日本新聞))
(4)寺島宗則 - Wikipedia
(5)旅行記 ・若き薩摩の群像 − 鹿児島市
   レポート 寺島宗則
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