レポート  ・寺島宗則   
 
− 寺島宗則 −
鹿児島県阿久根市脇本に生まれた松木弘安(のちの寺島宗則)は、幕府遣欧使節団随員、薩摩藩英国留学生の引率として、2度の渡欧を経て、日本の近代国家の礎を築きました。
 
明治政府では、外務卿、文部卿、元老院議長を歴任しますが、若き日の宗則は科学者でもあったことは特記に値します。島津斉彬の集成館事業に携わった他、電気通信ネットワークが最優先であるとして電信政策を推進し、日本の『電気通信の父』と呼ばれています。
 
外交折衝のほか、経済・民生・教育、産業・交通・通信、海事・保安・裁判などの幅広い分野で活躍した宗則の素地というものは、5歳という幼少の頃から培われて行ったのでした。
 
寺島宗則記念館(鹿児島県阿久根市脇本)の畳の間に、『薩摩・日本の近代化を支えた国際派』と題する屏風式衝立の説明板があります。このレポートはその説明板にある解説を出典にして書きました。
 
 §1 祖父と養父
 
松木家は17世紀中頃から薩摩藩士となり、出水外城の郷士として活躍します。特に、宗則の祖父・松木宗諄は豪快な人でした。蘭癖大名などと揶揄された藩主島津重豪の前でオランダ船から買い付けた洋牛に乗って見せたり、漂着した中国船を日向から長崎に回航したりして、重豪の信頼が厚かったそうです。
 
宗諄の長男、松木宗保は14歳で医師を志し、18歳の時に長崎に出かけて西洋文化に触れ勉学に勤しみ、眼科を学ぶと薩摩に戻って町医者として活躍します。38歳の頃再び長崎へ赴き、ドイツ人の出島商館医、シーボルトから外科医術を学び帰郷後、藩主斉興の表医師となりました。
 
一方、宗諄の次男の祐照は長野家に養子入りし長野増右衛門を名乗ります。妻秋野との間に次男として生まれたのが宗則で、徳太郎と名付けられました。藩主の表医師となった松木宗保と妻ヤヲの間には子供がいませんでした。
 
宗保は妻ヤヲの兄弟の宗貫を養子に迎えますが、宗貫は江戸で遊学中に病死。そこで、今度は当時5歳だった徳太郎を養子に迎えました。徳太郎が現在の寺島宗則記念館(寺島宗則旧家)で暮らし始めたのもつかの間、養父・宗保は5歳の徳太郎を長崎へ連れて行きます。
 
 §2 長崎へ、そして江戸遊学
 
8歳の時に銀屋町の上野俊之丞宅に転居。俊之丞は時計師の家柄で蘭学に長け、化学や砲術に詳しく、薩摩藩士に精練術や製薬を教えていました。日本における最初期の写真家で、わが国写真の父と言われる上野彦馬は俊之丞の息子です。
 
西洋化学や医学の研究に没頭する父や俊之丞の姿を見ながら8歳の宗則は、午前中に読み書きを勉強し、午後は堀専二郎や西哲太郎といった蘭通詞からオランダ語を学びました。
 
10歳になった天保12(1841)年、宗則は宗保、上野俊之丞とともに鹿児島に戻り、藩主斉興に拝謁。2年後に、宗保一家は鹿児島城下に転居します。父宗保は蘭方医として活躍し、宗則は文武両道の修練に勤しみます。
 
藩主島津斉興の側室であったお由羅の方に拝謁した徳太郎は気に入られ、弱冠15歳で江戸への藩費遊学の機会を得ます。父宗保の病死で家督を継いだ徳太郎は、松木弘安と名乗り、弘化3(1846)年江戸へ。戸塚静海や川本幸民に師事します。
 
特に、理化学に精通し日本化学の祖とも言われる川本のもとでは西洋物理学の入門書を会読。その後も古賀謹堂、伊東玄朴らに師事し、宗則は長崎や江戸で得た知識を次第に開花させていきます。
 
 §3 斉彬の殖産興業から2度にわたる渡欧へ
 
嘉永4(1851)年、藩主となった斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興ます。戸塚や伊東、川本ら、当時一流の蘭学者を招いて蘭学の研究をさせます。
 
そして造船をはじめガラスや薬品の製造、反射炉や溶鉱炉などの精錬、鋳造技術の実用化を目指しました。このとき、蘭書の翻訳や実験への立ち合いで活躍したのが宗則でした。斉彬の宗則に対する信頼は揺るぎないものになっていました。
 
安政5(1858)年、長崎に派遣されていた宗則のもとに斉彬死去の報が届きます。失意にくれる宗則は城下の自宅を売却して江戸の蕃書調所に復職。蕃書調所で蘭学を教える傍ら、英語を独学し始めました。
 
英語力が買われ、文久2(1862)年、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わります。翌年に帰国すると鹿児島に戻りますが、文久3(1863)年の薩英戦争においては五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となります。
 
しかし、講和の段階で若き藩士に随行員を加えた使節団をイギリスに密航させることが決定されると、渡欧経験のある宗則は随行員に抜擢されます。慶応元(1865)年3月22日、グラバーの傭船オースタライエン号に乗った薩摩藩遣英使節団は串木野羽島浦を密かに出発しました。
 
宗則は産業技術の視察や機械の買い付けに奔走。また、トーマス・B・グラバーの紹介で下院議員であったローレンス・オリファントと出会い、その仲介で外務次官にも面会し、イギリス外務省との外交交渉などを積極的に行いました。
 
 §4 帰国してからの日々
 
帰国した宗則は倒幕、維新の激動の時代にあって、外交はもとより、さまざまな近代化施策を提案します。時代が明治に移ると、欧米諸国との不平等条約を解消すべく積極的に交渉に臨みました。
 
同時に、立ち後れていた電信や鉄道の敷設など近代国家として必要なインフラ整備も押し進めました。その後も近代国家の理想像を描きつづけ、1893年6月、62歳で静かにその波乱の人生を終えました。 
 
下記の旅行記があります。
旅行記 ・寺島宗則記念館 − 鹿児島県阿久根市
 
脇本湾と寺島
寺島宗則記念館(寺島宗則の旧家)
寺島宗則記念館の説明板『薩摩・日本の近代化を支えた国際派』
(写真は、2021年2月7日、 鹿児島県阿久根市脇本で撮影)
 

  2021.02.24
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