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♪いつの日にか | ||
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若き薩摩の群像− 鹿児島市 |
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文久3年(1863年)薩英戦争で西欧文明の偉大さを痛感させられた薩摩藩は、慶応元年(1865年)、15名の留学生と4名の使節団を英国に派遣しました。幕府の鎖国令を破っての派遣だったので、全員変名を使って、甑島(こしきじま)大島辺出張という名目で、慶応元年(1865年)4月17日、串木野市羽島浦から英国貿易商グラバーが用意した蒸気船オースタライエン号で、密かに英国に旅立ちました。約2ヵ月後の6月21日にロンドンに到着した学生たちはロンドン大学に留学します。留学生らは帰国後、外交、文教、産業等の分野で活躍し、日本の歴史を大きく転換させ、新生日本を建設する原動力となりました。現在、県歴史資料センター黎明館では、渡航 140年記念企画展が開催されています。鹿児島中央駅の正面にそびえ立つ、薩摩藩英国留学生をモチーフにした『若き薩摩の群像』の像碑と、旅立ちの地である串木野市羽島を訪れました。 (旅した日 2005年07月) |
若き薩摩の群像 |
鹿児島市の玄関口・鹿児島中央駅へ降り立つと、江戸時代の末期に国禁を犯して海外留学を果たし、新生日本を建設する原動力となった薩摩藩英国留学生をモチーフにした銅像『若き薩摩の群像』が観光客を出迎えてくれます。高さが12.1mあって、彫刻家で日本芸術院会員の中村晋也氏(1926〜)によって、昭和57年(1982年)に制作されました。 |
路面電車(中央駅前) |
鹿児島市内は、路面電車が走っていて、市民の日常の足となって活躍しています。写真は、『若き薩摩の群像』が立っている鹿児島中央駅前の電車通りの風景です。 |
十九名の渡航者たち |
使節団・監督新納久脩(34) 家老・司法官 |
使節団寺島宗則(34) 外務卿 |
使節団五代友厚(31) 大阪商工会義所初代会頭 |
学頭・町田久成(28) わが国初の博物館局長 元老院議官 |
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村橋久成(23) 戊辰の役の砲隊長 サッポロビール創始者 |
畠山義成(23) 東京開成学校(現在の東大)初代校長 |
名越時成(21) 語学教師 |
鮫島尚信(21) フランス特命全権公使 外務大輔次官 |
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田中盛明(23) 生野鉱山局長 |
中村博愛(25) オランダ公使 |
森有礼(19) 初代文部大臣 |
吉田清成(21) 農商務大輔次官 枢密院顧問官 |
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市来和彦(松村淳蔵)(24) 海軍中将 |
東郷愛之進(23) 戊辰の役で戦死 |
町田実積(19) 不明 |
町田清次郎(15) 不明 |
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高見弥一(31) 中等学校教員(土佐人) 通訳掘孝之(22) 一行の通訳(長崎人) |
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長沢鼎(14) アメリカのぶどう王 |
イギリスへ渡航したのは、4名の使節団(通訳を含む)と15名の留学生でしたが、『若き薩摩の群像』には、留学生・高見弥一(土佐出身)と通訳・掘孝之(長崎写真)の銅像はありません。いずれも、薩摩出身でないという理由からです。但し、群像の傍らにある案内板には、写真入で紹介があります。
高見弥一 15名の留学生の中に、一人だけ薩摩出身ではない異色の人物がいました。土佐出身の高見弥一です。元々土佐国(現在の高知県)野市村生まれの郷士で、若くして武市半平太の土佐勤王党に加盟しますが、半平太の命令によって土佐藩参政・吉田東洋を暗殺し、脱藩の身となります。薩摩藩に亡命した高見は異例ながら、薩摩藩が設立した洋学教育学校「開成所」の諸生に選抜され、さらに英国留学生の一人に選ばれたのです。 |
旅立ちの地〜羽島(串木野市) |
鹿児島県串木野市に、羽島(はしま)という小さな港町があります。遠く東シナ海を望む羽島浦は、古くは薩摩藩の密貿易港として栄えましたが、今はその面影はなく、静かな一漁村となっています(写真上左)。その羽島に、『留学生渡欧の地』の記念碑があります(写真下)。記念碑への入口には、恵比寿神社があって案内板が立っています(写真上右)。留学生たちは、羽島に2ヶ月間滞在したのち、慶応元年(1865年)4月17日の朝、英国貿易商グラバーが用意した蒸気船オースタライエン号で、密かに英国に旅立ちました。
旅立ちの歌 江戸幕府による鎖国令が出されているなかで、国禁を破っての密航だったので、死を決しての出航でした。留学生らは自らの思いや決意を和歌に託しました。記念碑には、次の和歌が刻まれています。 君か為忍ふ船路としりながらけふのわかれをいかて忍ひん 畠山義成 花ならぬ影も匂ひて羽島浦更にゆかしき今日にもあるかな 市来和彦(松村淳蔵) 薩摩藩でも家格の高い門閥の家に生まれ、将来が約束されていた畠山義成(23)は、突然の藩命に納得がいきません。 畠山の歌には、苦悩と悲壮な決意が込められています。一方、市来和彦(のちの松村淳蔵)(24)は、扶持米わずか五石程度の下級武士でした。畠山とは違い、市来にとってイギリスへの留学命令は大きなチャンスだったのでしょう。希望に膨らんだ胸の内が歌ににじみ出ています。畠山は、東京開成学校(現在の東京大学)初代校長となってわが国の文教の発展に尽くし、市来(松村)は、アメリカアナポリス海軍兵学校を卒業してわが国海軍の建設に尽力し海軍中将となりました。 【参考文献および参考サイト】 ◆門田明著:『若き薩摩の群像』(春苑堂出版、1991) ◆『薩摩的幕末雑話(第二話、第十話)』→ http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/zatsuwa.htm ・トップページ → http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/index.htm ) |
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