ひとり ショートバージョン
須釜俊一のウェブページ
初冬の三渓園 − 神奈川県横浜市
                        (
横浜の南の閑静な高台に、日本の風情を再現した175,000m2(約5万3千坪)の日本庭園・三溪園(さんけいえん)はあります。生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三溪(本名、富太郎)のもと別邸でした。三溪は、京都や鎌倉などから歴史的価値のある建築物を移築し、明治39年(1906)に『三溪園』として一般公開しました。園内には、10棟の重要文化財を含む17棟の古建築物が四季折々の自然の景観の中にたくみに配置されています。第二次世界大戦で大きな被害を受けましたが、昭和28年(1953)原家から財団法人・三溪園保勝会の手に移されたのを機に復旧工事が行われ、5年後にほぼ昔の姿をとりもどしました。そんな三溪園をまだ紅葉が残る初冬の日に訪れました。園内は、重要文化財が立ち並ぶ内苑(ないえん)と、池を囲む古都の雰囲気あふれる外苑(がいえん)からなります。内苑と外苑の2つのページに分けて、雰囲気の一端をアップロードしました。下のメニューバーで切り替えてご覧下さい。                                (旅した日 2004年12月)
■内 苑 外 苑
御門と白雲亭
御門(横浜市指定有形文化財)


御門(ごもん/写真左)は、京都の西方寺に宝永5年(1708)頃造営され、大正初期に三溪園に移築されたもの。この門からが内苑になります。
白雲亭(横浜市指定有形文化財)


白雲亭(はくうんてい/写真右)は、原三渓が大正年(1920)に隠居所として建築した数奇屋風建築で、明治以降における近代和風建築を代表するものとされています。
臨春閣
臨春閣(重要文化財)


臨春閣(りんしゅんかく/写真左・下)は、紀州徳川家初代・頼宣が、慶安2年(1649)に和歌山の紀ノ川沿いに建てた夏の別荘・厳出御殿といわれています。八代将軍吉宗は、幼少をこの厳出御殿で育ったといわれます。数奇屋風書院造りの別荘建築として、宮家別荘・桂離宮と共に別荘建築の双璧といわれているそうです。大正6年(1917)に、三溪園に移築されました。
右の写真で、檜皮葺きの唐破風の屋根を持った橋が見えますが、「亭しゃ」と名付けられています。
聴秋閣と春草廬
聴秋閣(重要文化財)


聴秋(ちょうしゅうかく/写真左)は、もと三笠閣と呼ばれていた楼閣建築物で、元和9年(1623)三代将軍徳川家光が上洛に際し、佐久間将監(しょうげん)に命じて京都二条城内につくらせたものと言われています。その後、春日局(かすがのつぼね)に賜り、江戸稲葉候邸内に移されました。三溪園には、大正11年(1922)に移築されました。
春草廬(重要文化財)


春草廬(しゅんそうろ/写真右)は、三室戸寺金蔵院に付属して建てられていた茶室で、織田信長の弟で、茶人の織田有楽斎の作と伝えられています。大正7年(1918)、三溪園に移築されました。
天授院と月華殿
天授院(重要文化財)


天授院(てんじゅいん/写真左)は、鎌倉建長寺付近の心平寺跡にあった地蔵堂を移築したもので、原家の持仏堂として使っていました。慶安4年(1651)に建築された建てられた茅葺き寄棟造の禅宗様建築です。
月華殿(重要文化財)


月華殿(げっかでん/写真右)は、徳川家康が慶長8年(1603)京都伏見城内に建て、諸大名伺候(しこう)の際の控室に当てたものと伝えられています(伺候とは、謹んでご機嫌伺いに上がること)。大正7年(1918)、三溪園に移築されました。
【備考】
本ページの説明文は、現地の各建築物の案内板や三溪園でもらったパンフレットの説明文を
引用あるいは参考にして書きました。
あなたは累計
人目の訪問者です。
 
Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.