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飫肥雛めぐり |
飫肥城・追手門 |
飫肥(おび)は、宮崎県の南部、 日南市中央部にある地区で、もとは那珂郡飫肥村。天正16年(1588)から明治初期までの 280年間飫肥藩・伊東氏の5万1千石の城下町として栄えたところです。 |
白塀に辛夷の花 |
初代藩主は伊東祐兵(すけたけ)。 戦国時代、84年間にわたって伊東、島津の覇権争いが続いたが、豊臣秀吉より 九州征伐の功績により、飫肥が与えられました。 |
菜の花(小村記念館にて) |
飫肥城を中心に現在も残る武家屋敷、 石垣、庭園などの史跡や商家造りの建物などが当時の面影をとどめていて、1977年(昭和52年)に、 九州・沖縄地方で最初となる『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されました。 |
豫章館(よしょうかん)入口 |
そんな飫肥で 毎年2月1日から3月20日まで『飫肥雛めぐ』と銘打って雛人形展が開催されます。飫肥城下を 散策しながらいくつかの会場に展示された雛人形を楽しむことができます。 |
豫章館(よしょうかん) |
豫章館は、明治2年、 飫肥藩主・伊東祐帰(すけより)が知事に任ぜられて、城内より移り住んだ屋敷。邸内にあった 数百年を経た大楠にちなんで豫章館(よしょうかん)と名づけられました。 |
豫章館の雛人形 |
広い屋敷地に主屋や御数寄屋・雑舎・蔵を配し、 入口には薬医門を構えている、飫肥城下では最も格式のある武家屋敷です。南面一帯は、広い空間に 庭石や石灯籠・庭木などが巧みに配置され、閑静な佇まいの枯山水式庭園となっています。 |
飫肥城の登城道 |
藩政時代に飫肥藩の藩庁となった飫肥城は、 周囲が24町(約 2.6km)あり、本丸、松尾の丸、中の丸、今城、西の丸、北の丸など 9つの曲輪(くるわ)を配した典型的な平山城でした。 |
飫肥城歴史資料館への石段 |
大手門から松尾の丸に至る登城道は、 往時の面影を伝える石垣や白壁が残る中に飫肥杉が生い茂り、『日本百名城』にも 選定された名城にふさわしい雰囲気のある景観を呈しています。 |
飫肥城歴史資料館 |
飫肥城歴史資料館は 1978年(昭和53年)に開館しました。館内は 262平方メートルの広さがあり、甲冑や 刀剣など飫肥藩ゆかりの歴史的資料 220点程が展示されています。 |
松尾の丸 |
松尾の丸は城内に配置された9つの曲輪のうちの一つで 藩主の生活の場でした。現在の松尾の丸の屋敷は、1979年(昭和54年)に樹齢 100年以上の杉を使い、 新たに江戸時代初期の身分の高い武家屋敷を想定して時代考証を行い建築されたものです。 |
松尾の丸の雛人形 |
書院造りの御殿として建築された松尾の丸の建物は、 延床面積が800.02平方メートルあり、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など20室以上の部屋からなります。 このうち湯殿は、西本願寺の飛雲閣のものを模したこけら葺きの総桧造りになっています。 |
パワースポット『しあわせ杉』 |
4本の杉が石垣に囲まれて四隅に立つ場所は、 4本の杉が合わさることから『しあわせ杉』と呼ばれるようになりました。その対角線の交わる 中央の場所は『しあわせパワー』を授かるスポットとして有名になりました。 |
追手門 |
飫肥城の大手門は、明治時代初めに 取り壊されましたが、1978年(昭和53年)に樹齢 100年以上の飫肥杉を4本使用して復元されました。 木造渡櫓(とろ)二階建て、本瓦葺きの重厚な造りの江戸時代の櫓門です。 |
追手門を潜って下校中の小学生 |
飫肥城は、本丸跡に日南市立飫肥小学校がある、 珍しい城跡なのです。ですから、児童が大手門を潜って登下校する風景をみることができます。 生まれ育ったふるさとの歴史に朝夕接しながらの通学、素晴らしいことです。 |
『小村記念館』へ |
国際交流センター小村記念館は 日本の近代外交の礎を築いた明治の外交官小村寿太郎の遺徳・功績を顕彰するとともに、国際化に対応できる 人材育成や文化活動に寄与することを目的に1993年(平成5年)に開館しました。 |
武家屋敷通り(馬場通り) |
小村寿太郎は、桂太郎内閣で二度外務大臣を つとめ数多くの実績を残しましたが、1905年(明治38年)に日本側全権としてポーツマス条約 (日露講和条約)を調印して日露戦争を終結に導いたことで知られています。 |
小村寿太郎生家 |
その寿太郎の生家は、飫肥城の大手門を 出て左折した武家屋敷通り(馬場通り)の入口にあたる一角にあります。 2004年(平成16年)に復元されたものです。 |
小村寿太郎生家 |
明治維新の廃藩置県に 伴い藩士は俸禄を失い、屋敷を離れた者も多いでした。ここの馬場通りは、 飫肥藩士屋敷の典型的な姿を色濃く留めています。 |
小村寿太郎生家の雛人形 |
それは、傾斜地のため屋敷囲いに 石垣をめぐらしているので、原型は余り崩れていません。また、屋敷規模も 広く一戸平均 900坪で広い。(現地説明板より) |
武家屋敷通り(馬場通り) |
旧伊東伝左衛門家は、飫肥藩の上級家臣の 典型的な住居です。屋敷地の南面と東面は高さ2メートル以上の切り石の石垣が 積まれ、八幡馬場通りに面した入口は石段となっています。 |
旧伊東伝左衛門家(市指定文化財) |
建物は19世紀中頃までに建てられた と推定されています。建築材には飫肥杉を使い、床下を高くするとともに、南面に廊下を めぐらすなど、後に飫肥の住宅に見られる特徴をすべて備えています。 |
旧伊東伝左衛門家(玄関) |
建物の南には武家屋敷に 典型的な枯山水の庭がつくられており、外周の石垣、建物とともに飫肥藩の 上級家臣の生活を知るうえで重要な屋敷です。(現地説明板より) |
旧伊東伝左衛門家の雛人形 |
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