♪Prologue
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妙見温泉と熊襲の穴 − 鹿児島県霧島市
                  
霧島山系を源として、霧島市隼人町で鹿児島湾(錦江湾)に注ぎ出る天降川(あもりがわ)の渓谷沿いには数ヶ所に温泉場が点在しています。『妙見(みょうけん)温泉』は、その中流付近にある温泉場で、豊かな自然の中に10軒余りの旅館やホテルが軒を連ねています。温泉場の名前は、1895年(明治28年)に妙見神社の旧跡から発見され開湯されたことに由来します。元々は湯治場で、今でも自炊宿がありますが、各旅館とも露天風呂に力を入れ、また鹿児島空港から車で10数分の所に位置していることもあって、近年は人気の高い温泉地の一つになっています。妙見温泉にある『熊襲の穴』は、ヤマトタケルノミコトの熊襲征伐神話の舞台になった場所と言われています。   (旅した日 2005年02月)


妙見温泉
くすしき国の虹のつり橋 妙見温泉街中心部の、天降川(あもりがわ)にかかるこの木造の人道橋(写真上)はその名を、斎藤茂吉の詠んだ『日当山 妙見 安楽 塩浸 湯は湧きいでて くすしき国ぞ』という歌に由来します。「くすし」とは、霊妙だ、不可思議だという意味です。隼人の乱に関係する史跡隼人塚、海幸彦・山幸彦の神話の地といわれる鹿児島神宮、そして妙見温泉にある熊襲の穴など、むかし大隅(おおすみ)国・贈於郡(そおぐん)と呼ばれた、妙見温泉の辺りは十分妖しく、魅力に満ちた場所です。


旅の宿
      旅の宿 〜 『忘れの里 雅叙苑』

  妙見温泉には10を越える旅館やホテルがありますが、旅の宿を2つほどご紹介致します。『忘れの里 雅叙苑(がじょえん)』は、客室が茅葺屋根の「離れ家形式」のお宿。坂道を下ってその入口に差しかかると、かつての日本の農村風景を思い出させるように庭には鶏が遊び、ロビーには囲炉裏に年中薪が燃えています。客室には大きな岩をくり抜いて作られた露天風呂が据えられ、また天降川の川原にも露天風呂がしつらえてあります。薪で炊いたご飯に自家栽培の野菜、その他の食材もすべて地元産でまかなわれています。雅叙園が所有する山の頂上に、霧島連山を一望できる露天風呂・プライベートスペース『天空の森』が新しく建設されました

■公式サイトアドレス → http://gajoen.jp/main.html
写真上 雅叙苑と天降川に設えられた雅叙苑の露天風呂


    旅の宿 〜 『妙見 石原荘』

  天降川の渓流沿い杉林と雑木に囲まれた旅館『妙見 石原荘』1万坪の敷地内には、四季折々の野の花が咲き乱れます。渓流には鮎やハヤ、鯉などの魚影が写り、鷲、きせきれい、やませみ、そしてかわせみなどが水辺に遊びます。

大浴場・天降殿と川端露天風呂、椋の木野天風呂それぞれに源泉が一つずつあって、すべて55度の自噴する温泉で、
文字通り
源泉100%の掛け流しです。

■公式サイトアドレス
          → 
http://www.m-ishiharaso.com/


写真上 妙見石原荘


熊襲(くまそ)

熊襲(くまそ)とは、日本神話(にほんしんわ)に登場する一族名で、南九州に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗した一族名とされています。日本書紀では『熊襲』と表記され、古事記では『熊曾』と表記されています。熊襲が居住したとされる大隅(おおすみ)国・贈於郡(そおぐん)こそ、現在の鹿児島県霧島市隼人町の妙見温泉辺りなのです。

古事記や日本書紀に記載のある第12代天皇・景行天皇の皇子『ヤマトタケルノミコト』(倭建命、日本武尊)による『クマソタケル』(熊曾建、川上梟師)の征伐物語は有名な神話伝説です。

熊曾建(クマソタケル)

景行天皇の皇子・小碓命(おうすのみこと)は、16歳のとき熊襲討伐を命ぜられ、はるばるこの隼人の地まで遠征してきました。機をうかがっていましたが、強大な勢力を誇る熊襲の酋長クマソタケルに容易には近づけません。

ある日タケルは、熊本、鹿児島、宮崎の南九州にまたがる55の部族の主将達を集めて酒盛りを開きました。ちょうど近隣の女たちがお酌をし、宴たけなわになった頃、
小碓命は女装して宴にまぎれ込み、クマソタケルの前に出ます。陶酔状態のタケルは、虚ろな目で小碓命を見ると、「今まで見たこともない綺麗な女だ、お前と二人で飲もう」と二人っきりになります。
そこで、小碓命はお酌をする振りをして、懐中の剣をタケルの背中にブスリと刺しました。驚愕(きょうがく)のタケルは、「そちらは何者か」とたずねるます。「われこそは、景行天皇の皇子小碓命なるぞ」とこたえると、「あなたは私より強い、小碓命では名が小さい、私の名をとって「倭建命」(ヤマトタケルノミコト)として頂きたい」と申し出ます。、小碓命は了承されました。

血塗りの剣を手にした女装の少年を大勢の屈強の大男たちが取り囲み、一突きしようと身構えます。流血し瀕死のクマソタケルは、「こなたは、景行天皇の皇子小碓命だ、朝貢しないと征伐に来られた、決して殺すでないぞ、私の名を献上して、ヤマトタケルノミコと命名して頂いた。朝廷まで無事届けてくれ、そして我々は今日限りで解散してくれ」と命じました。
小碓命を一突するのはわけもなかったことでしたが、屈強の大男たちは、クマソタケルの小声の厳命を主命として悲哀の極限の中で守ったのでした。熊襲族が即座に解散した証拠として、歴史の本を探しても、その後の熊襲に関する記事は見当たらないと言われます。




※ クマソタケルと小碓命のやり取りについては、下記の『熊襲の穴』の現地案内板に掲載のある
妙見石原荘社長・石原貫一郎氏著『熊襲こそ貴族』を参考にし、一部を引用させて頂きました。全文は、下記サイトでご覧頂けます。→
 http://www.isihara-kk.co.jp/kanichiro/


以上の写真 妙見石原荘


熊襲(くまそ)の穴
熊襲の穴

この洞穴は、妙見石原荘の西側200mの崖山(石原荘敷地内)にあり、次のような案内板が立ててあります。

『熊襲の穴は、この地点からおよそ5mのところにあり、昔熊襲族が居住していた穴で、熊襲の首領・クマソタケルが女装したヤマトタケルノミコトに誅殺(ちゅうさつ)されたところで、一名嬢着(じょうちゃく)の穴ともいわれます。

第一洞穴は、奥行22m、幅10mで
百畳敷き位の広さがあり、さらに右正面から第二洞穴につながっておりますが、現在入口が崩れて中に入りません。第二洞穴は、約三百畳敷き位の広さといわれています。』
第一洞穴の入口(写真上)

  人がかがんでやっと通れる岩の割れ目の入口から第一洞穴に入って行きます。妙見石原荘からは、熊襲の穴までは遊歩道が整備されています。熊襲穴入口の横にあるスイッチボックスで照明の電源を投入してから穴に入って行きます。


洞穴とモダンアート
洞穴への出入口

1990年に、鹿児島県出身の前衛画家・萩原貞行氏が水性ペイントの原色を使って、洞穴の壁と天井に渦巻き模様やヘビの形、星や月などを描きました。古代人の息吹がモダンアートで表現されています。


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