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旅行記 ・光専寺(一万人集会の場) − 熊本県山鹿市 2019.07
光専寺
(一万人集会の場)
光専寺山門
史跡 一万人集会の場(説明文) この寺の境内では、明治十年一月二十九日に有名な一万人集会の場所となった所である。一万人集会と云うのは、当時城北各地に地租改正と民費増徴等のかたちで収奪が強化されたため、それを不満とする農民の騒擾が次々に起ったが、その総決算とも云うべき大抗議集会であった。即ちその発端は、明治六年七月地租改正条例が布告されて新しく評価された地価によって地租(地価の3%)を課せられ、さらに農民には地租の三分の一を民費として課せられたことによる。しかもそのすべてが金納となったので農民の生活は苦しくなるばかりであった。そのため明治八年の暮頃から農民一揆が全国的に起こりつつあった。山鹿郡内えも明治九年の年末から年始にかけ各村々で抗議集会がもたれ、戸長(小区の長)役場におしかけて、貢租納入延期のほか民費の使途の明細などについて激しい糺問する状態が続いた。
一万人集会の場・説明板
この事件を戸長征伐と云ったが、それをリードしたのは嘗(かつ)て植木学校に学んだ民権党の連中であった。郡内の戸長役場はそのために動揺し事務処理も出来ない状態になった。県ではそれを鎮圧するため集会禁止令を二回に亘って出したが騒擾は一向に収まらなかった。そこで県は一等属近藤幸止を山鹿に派遣して説論にあたらせた。然しその時集会禁止令を無視してここに集まった者は、郡内外を合せて一万人(当時の熊本新聞による)であった。そして農民達は近藤大属に激しく迫る気迫を示したので、近藤はそれに押されて責任のある戸長等を厳重に処分することを約束した。農民達は歓声をあげて解散した。数日後西南の役が勃発し、騒擾をリードした民権党員は熊本協同隊を組織して薩軍に参加した。
鹿口の戦薩軍野戦病院跡・説明板
史跡 山鹿口の戦薩軍野戦病院跡 西南の役において山鹿口の戦と田原坂の戦は最も激戦であった。山鹿が久留米から兼松を経て植木、熊本に南下する道路の中間にあたり重要な拠点であったので、薩軍は桐野利秋が総帥として、最強の四番大隊を主軸とする軍団と熊本協同隊、飫肥隊を率いて攻勢防御の体制をとった。それに対して官軍は三浦梧櫻の率いる第三旅団であった。二月二十六日から三月二十一日までに両軍相会戦すること五回。
門前の風景
鍋田原を中心として北は正円寺から南は志々岐、長岩に至る間に激戦が展開された。中でも三月十二日の鍋田原の戦は爆烈を極めた。その間官軍の戦死者は三二五名、薩軍の戦死者は二百数十名であった。この寺は開戦頭初は薩軍の兵站基地であったが、後、野戦病院に使用された。本堂に屍体が運び込まれて会葬され、庫裡には負傷者を収容して看護された。又合戦中、山鹿の町に熊本協同隊の有志によって民権体制がしかれた時、この寺は民権長官となった野満長太郎の檀那寺あったため、彼は寺の一室を借りて同志の会合を行ったと云う事である。
光専寺の門前通り
田原坂が陥ちると山鹿口の薩軍も隈府方面に退却したが、去るに及んで彼等は「我々は負けていない。」と残念がり、本寺の庫裡の天井や鴨居を槍や刀で突き破って無念の情を表したいう。その時の痕跡が今も鴨居の一部に残っている。昭和六十三年八月 嶋田芳人識。設置者 山鹿郷土史研究会、山鹿口の戦顕彰会。
 
   宮崎八郎戦没の地  植木学校跡  光専寺
   
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