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金沢散策 − 石川県金沢市
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石川県金沢市といえば、言わずと知れた加賀百万石として栄えた城下町。天正11年(1583年)に藩祖・前田利家が金沢城に入城して以来、14代にわたって約300年繁栄した加賀藩の拠点。その後は、北陸最大の都市として繁栄し、「加賀友禅」、「金箔工芸」、「能」などの伝統文化・伝統工芸が今に継承保存ざれています。また、町並みの保存にも力が注がれ、『ひがし茶屋街』『にし茶屋街』『長町武家屋敷跡』などを散策すると風情ある昔ながらの佇まいに当時の面影が偲ばれます。佇まいの一端をアップロードしました。                         (旅した日 2005年09月)


ひがし茶屋街(伝統的建造物群保存地区)

ひがし茶屋街 

藩政時代、金沢城下の入口にあたる北国街道の浅野川・犀川両界隈には、お茶屋が立ち並んでいた。文政三年(1820年)になり、正式に加賀藩の許しを得て、この「ひがし」も茶屋町が犀川外の「にし」と共に開かれ、以来城下図随一のにぎわいをみせた。

通りに面して、一階を揃(そろ)いの出格子、座敷を備える背の高い二階を吹放しの縁側とする姿のお茶屋が並ぶ町並みは、藩政末期以来の茶屋町の特徴を良く残している。

今も夕暮れ時には芸妓衆が行き交い、どこからともなく笛や三弦の音が聞こえる風情あふれる茶屋町である。 〜 案内板より

志摩(国指定重要文化財) 

志摩(写真右)は、茶町創設当初に建てられた茶屋建築である。「茶屋建築」は、二階を客間(座敷)とするため、二階部分を高くつくり、通りに面して高欄と張り出しの縁側を設けているのが特徴である。

一、二階の座敷廻りには要所に、「面皮柱」と呼ばれる丸太の肌を残した柱を用い、漆(うるし)で全体に濃い色づけをほどこし、弁柄(べんがら)色の土壁や具象的な図案の金物等で、独特の瀟洒(しょうしゃ)で華やかな室内を醸し出している。

全国的にも類例の少ない茶屋建築であり、江戸時代後期における庶民文化の一端を知るうえでも貴重な建物である。

                  
〜 案内板より





にし茶屋街
にし茶屋街

文政三年(1820年)に、藩侯の許可を得て妓楼地区を定めたのが始まりで、「ひがし茶屋街」と共に誕生した茶屋街です。

100mほどの間に今でも多くの料亭や芸妓の置屋があり、紅殻格子でニ階建ての風情ある町並みが当時を偲ばせています。夕刻近くに通りを歩けば茶屋建ての家並みから、三味線の音色が聞こえてきそうです。

金沢一の繁華街・香林坊から国道157号を南へ数100m歩き、犀川を越えると、にし茶屋街は野町広小路交差点のすぐ近くにあります。

料亭・華の宿

お茶屋の一つ『華の宿(はなのやど)』(写真左)では、内部を一般開放しており、お茶屋の雰囲気を存分に味わいながら、抹茶と和菓子が楽しめます。(下の写真は、香林坊・エクセルホテル東急あたり。)



尾山神社
尾山神社 藩祖・前田利家が祀られている神社。三層の神門は、明治初期にオランダ人ホルトマンの指導により建てられた珍しい五彩のギヤマン(ステンドグラス)入りの洋風建築で、重要文化財になっています。


長町武家屋敷跡
長町界隈

この地区一帯を長町(ながまち)という。藩政時代はすべて藩士たちの住居であった。町名の由来については、香林坊したから図書(ずしょ)橋あたりまでの長い町筋であったことから、この名がついたという。また、藩の老臣・長(ちょう)氏や山崎長門(ながと)の氏名に由来するともいわれ、諸説がある。

このあたりでは、平氏(へいし)と呼ばれる加賀藩では中位の藩士が多く、20余家を数えることができる。藩士の職名は馬廻役、小姓役、近習衆、ほかに普請奉行、改作奉行付、門番役、藩校(学校)関係、算用場、産物方と多くの職種の藩士が居住した。
加賀藩では、知行高によって拝領する宅地の面積が決められていた。百石から二百石までは二百坪、三百石から四百石までは三百坪、五百石から七百石までは四百坪、八百石から千石までは五百坪、千五百石から千九百石までは六百坪という広さである。

屋根の周囲は土塀をめぐらし、高禄になると長屋門、物見などが設けられ、邸内に小者部屋、厩(うまや)のあるのが通例となっていた。 〜 金沢市の案内板より
両側に土塀が連なる細い石畳の小路。風情ある昔ながらの佇まい。香林坊の繁華街にあるエクセルホテル東急脇から路地に入って東へ少し下れば、江戸時代の武家屋敷へタイムスリップした空間に迷い込みます。小京都金沢を代表する風景の一つであるこの界隈は、ドラマのロケなどでもよく使われるそうです。冬になると土塀には『こもかけ』がされるそうです。


石川門(指定重要文化財)

石川門

金沢のシンボル的存在の入母屋造りの城門。国指定重要文化財。石川郡の方向を向いているのでそう呼ばれるようになったそうです。別名白門とも呼ばれます。

かつては搦手門(裏門)として金沢城を守っていた門で、現在の建物は、城内のほとんどを焼失した宝暦の大火(1759年)の後、1788年(天明8)に再建されたもの。

二層の菱櫓と多門を組み合わせてできており、なまこ壁には隠し鉄砲狭間や石落としの構造が仕組まれています。屋根瓦は、溶かせば鉄砲の弾に作り替えられる鉛でできています。瓦が白っぽいのは、そのためだそうです。

 兼六園  瑞龍寺と伝統的町並み
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