平均律第12番(バッハ)
Piano1001
安脚場戦跡鹿児島県瀬戸内町
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鹿児島県大島郡瀬戸内町の加計呂麻島(かけろまじま)の東端にある安脚場戦跡(あんきゃばせんせき)は、太平洋戦争中に旧日本海軍が泊地としていた大島海峡を防衛するための施設が置かれていたところです。安脚場は、もともとは1920年(大正9年)頃から旧日本陸軍が砲台を設置していましたが、1941年(昭和16年)から海軍によって砲台として整備されて利用されるようになりました。この際に大島海峡東端に設置した防潜網や管制機雷を遠隔操作する金子手崎(かねこてざき)防備衛所が建設されました。戦後、連合軍によって武装解除を受けたが、今でも弾薬庫や防備衛所の建物が残存していて、現在は公園として整備されています。           (旅した日 2009年01月)
        
        
大島海峡
探照灯台跡から奄美大島側、皆津崎を望む(写真上)
探照灯台跡から大島海峡をを望む(写真下)
        
        
奄美大島要塞司令部跡(古仁屋)
碑文
大正九年(一九二〇)古仁屋に陸軍築城本部奄美大島支部が開設され、直ちに大島海峡東口(皆津崎・安脚場)、同西口(西古見・実久)四地点に砲台陣地構築と共に要塞司令部施設工事が着工。後に『太平洋上の防御制限条約』(ワシントン)が締結され工事は中止の止むなきに至った。大正十二年(一九二三)砲台工事は未完成のまゝ奄美大島要塞司令部は、現在地に開庁された。以来、要塞司令官以下各砲台監視員・所要兵科要員が常駐した。この時同時開設された父島、膨糊島要塞と共に、日本三大要塞として国防第一線を担った。以来要塞地帯法・軍規保護法等の施行により一般住民の日常生活にも制約を受けるに至った。昭和十六年(一九四一)大東亜戦争勃発、大島海峡は南進基地と化し、艦船や戦闘機の発着が激化、海峡両岸各地には三軍の防備部隊が駐屯、沖縄作戦と共に敵機は要塞司令部を目標として間段なく来襲、同司令部も遂に古仁屋市街地と共に被爆、周囲の塀に無数の弾痕を残し終戦となった。
 こゝに由来の一端を記し後世に伝承する。
         平成三年秋    瀬戸内大正会
 
奄美大島要塞司令部は、古仁屋市街の現県立古仁屋高校のある場所にありました。この碑文は古仁屋高校正門横に建てられています。
 
 
砲台跡
最も高いところにつくられた砲台跡。1920年(大正9年)頃から旧陸軍の砲台が据えられていた場所で、1931年(昭和16年)には旧海軍の砲台が設置されました。当時のコンクリートがそのまま残されています。
弾薬庫跡
    
    
天水貯水池
天水貯水池と呼ばれるこの施設には地下に20トンのタンクが設置されていて、これに雨水を蓄えて兵士の飲料水にしていたそうです。
   
   
弾薬格納庫
小銃、機銃の弾薬を格納するため1920年(大正9年)に旧陸軍が構築した建物でしたが、太平洋戦争時は主に旧海軍が兵器庫として活用していました。写真上は、当時手で一個ずつ運んで築かれた石垣。
   
   
弾薬庫跡
この山頂には、1920年(大正9年)頃から旧陸軍の砲台が設置されていました。その当時は砲弾の格納庫として構築されましたが、1931年(昭和16年)に旧海軍の砲台が設置されていから旧海軍が砲、高角砲の弾薬庫として活用しました。
   
   
金子手崎防備衛所跡
金子手崎(かねこてざき)防備衛所は、1931年(昭和16年)に構築された施設で戦時中大島海峡に潜水艦の進入を防ぐための防潜網並びに、機雷等を布設し、潜水艦の接近を監視し、更に進入した場合、機雷を爆破させる施設で、これ等はすべてこの防備衛所でコントロールされていました。
    
    
探照灯台跡
    
    
兵舎跡
安脚場戦跡へ登る道路ばたにある兵舎跡。敷地を囲んでいるコンクリート塀はハブ除けだそうです。
   
   
 島尾敏雄文学碑公園  古仁屋〜加計呂麻島
    
    
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