♪故郷の廃家 みずきのMIDI 旅行記 ・犬童球渓の生家を訪ねて − 熊本県人吉市 人吉城公園 2007年の 11月3日、文化の日は、申し分ない 秋晴れの日でした。 午前中、 五家荘の久連子(くれこ)に古代踊りを 見に行った帰り、 人吉城公園を訪ねると、人々が 集(つど)っていました。 水の手門跡(人吉城址) ただ市内を眺めるように、 公園の柵に寄りかかり、思い思いに 談笑しています。 いつまでたっても、そこを動く 気配がありません。 わが街を愛するの情が伝わってきました。 人吉は、 九州の小京都とも呼ばれる 静かな街です。 青井阿蘇神社 四方を 九州山地の山々に囲まれた 草深い山里にあって、 相良藩一藩による統治が約700年の 長きにわたって続き、 独自の仏教文化圏が形成されたと いわれます。 例えば、 球磨で名所は、青井さんの ご門と唄われている青井阿蘇神社や 人吉・球磨地方に 点在する 相良三十三観音などが そうです。 二番札所 中尾観音 そんな人吉に、 明治12年(1879年)、農家の次男 として生まれた 犬童球渓(きゅうけい)は、当初、 父と農業に従事していましたが、教職に 就いていた兄の勧めで 熊本師範学校に入学、さらに 東京音楽学校(現東京芸術大学)に 進みます。 苦学の末卒業し、最初に 赴任したのが 兵庫県の柏原中学校(現柏原高校)でした。 ところが、 軍国主義の時代、音楽などは男子の やるべきものではないと、 生徒たちの授業妨害にあい、 心身を病んで、 わずか8ヶ月で転出します。 人吉城址 その後転任した 新潟高等女学校(現新潟中央高校)で、 遠い故郷を 想って訳詞を書いたのが、あの名曲 『旅愁』、『故郷の廃家』 でした。 本名は信蔵。 球渓というペンネームは、 球磨川の渓谷に生まれたことから つけたといわれます。 生涯に、360余編の 作詞作曲を手がけ、昭和18年(1943年)10月、 65歳で亡くなりました。 犬童球渓顕彰碑(人吉城址) 人吉市に お住まいのきょん2さんから つぎのような お便りを頂きました。 亡母は女学校時代、 犬童球渓先生から教えを受けたことを 誇りにして 私たちに自慢していました。 自慢話は 聞くのも、するのも嫌っていましたので 母の唯一の 自慢話だったように思います。 カルチャーパレスに 教え子たちの基金で出来た 銅像があります。 犬童球渓先生像(カルチャーパレス) また、人吉城址に、 犬童球渓顕彰碑があります。 昭和27年の 建立だったと記憶を手繰り 寄せました。 除幕式には、 私たちは合唱部で、 『故郷の廃家』、『旅愁』を 歌いました。 まだ制服も無い時代でしたが、 母がネルの生地でブラウスを縫って 着せてくれました。 恩師への敬意だったのでしょう。 当時は今よりも 寒く霧も濃く、白い息を吐きながら 歌いました。 もう、半世紀以上も昔のことが 懐かしく 思い出されます。 犬童球渓生家(人吉市西間下町) 人吉市では、 犬童球渓の偉業を顕彰し、 地域文化の 振興と発展に寄与することを目的とし、 毎年、 犬童球渓音楽祭が開催 されています。 没4年後の 昭和22年(1947年)に 第1回が開催され、今年(2007年)で 第61回を迎える 歴史ある 音楽祭だそうです。 犬童球渓の生家は、 今も市内の、 閑静な住宅街の一角に残っています。 今も使われているので、 中は見学できませんが、洋館風の しゃれた 感じの外観です。 きじ馬(国号267号線で) きじ(木地)馬は、 人吉・球磨地方の伝統玩具。 平家の落人たちは、 過ぎし都での華やかな生活を思い返すすべもない暮らし を慰めるため、 きじ馬、花手箱、羽子板などの 美しい木工品を 生み出したといわています。 国道脇に きじ馬が置かれている 『きじ馬街道』を登りつめた峠近くに ある休校中の学校は、 昭和の 面影を残しています。 第四中学校・大塚小学校(休校中) 『旅愁』 作詞/犬童球渓 作曲/オードウェイ (1) 更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに 一人悩む こいしや故郷 懐かし父母 夢路にたどるは 故郷(サト)の家路 更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに 一人悩む (2) 窓うつ嵐に 夢も破れ 遥けき彼方に こころ迷う こいしや故郷 懐かし父母 思いに浮かぶは 杜(モリ)の梢 窓うつ嵐に 夢も破れ 遥けき彼方に こころ迷う ―――――――――――― 『故郷の廃家』 作詞/犬童球渓 作曲/ヘイス (1) 幾年(いくとせ)故郷(ふるさと) 来てみれば 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風 門辺(かどべ)の 小川の ささやきも なれにし昔に変らねど 荒れたる我家(わがいえ)に 住む人絶えてなく (2) 昔を語(かた)るか そよぐ風 昔をうつすか 澄(す)める水 朝夕かたみに 手をとりて 遊びし友人(ともびと) いまいずこ さびしき故郷や さびしき我が家(わがいえ)や 編集後記 『故郷の廃家』についてネット検索していると、思いもしなかったエピソードにたどり着きました。硫黄島と結びついたのです。下記のレポートをご覧下さい。 ⇒ レポート ・『故郷の廃家』と硫黄島 あなたは累計 人目の訪問者です。 Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.
2007年の 11月3日、文化の日は、申し分ない 秋晴れの日でした。 午前中、 五家荘の久連子(くれこ)に古代踊りを 見に行った帰り、 人吉城公園を訪ねると、人々が 集(つど)っていました。
ただ市内を眺めるように、 公園の柵に寄りかかり、思い思いに 談笑しています。 いつまでたっても、そこを動く 気配がありません。 わが街を愛するの情が伝わってきました。 人吉は、 九州の小京都とも呼ばれる 静かな街です。
人吉市に お住まいのきょん2さんから つぎのような お便りを頂きました。 亡母は女学校時代、 犬童球渓先生から教えを受けたことを 誇りにして 私たちに自慢していました。 自慢話は 聞くのも、するのも嫌っていましたので 母の唯一の 自慢話だったように思います。 カルチャーパレスに 教え子たちの基金で出来た 銅像があります。