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西南戦争史跡〜可愛岳 − 宮崎県延岡市
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明治10年(1877年)2月、鹿児島を発した薩軍は、熊本城攻め、植木・田原坂の激戦に敗れて矢部(熊本県)に退き、人吉・宮崎・都農(つの)を経て、8月2日、西郷隆盛は延岡入りしますが、延岡は陥落、8月15日、西南戦争最後の激戦『和田越の決戦』において、西郷は初めて戦場に立つことになります。その和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置き、西郷は解軍の令を出します。そして、可愛岳(えのだけ)突囲(包囲網を突破すること)。これより、道なき道の山岳逃避行は故郷・鹿児島城山まで、半月近く続くことになります。可愛岳近辺の西南戦争の史跡を訪ねました。レポート『西南戦争 〜 可愛岳突囲』と共にご覧下さい。(旅した日 2007年11月)


西郷隆盛宿陣跡(児玉熊四郎方)
        県指定史跡  南洲翁寓居跡

8月16日の薄暮の頃、西郷は児玉熊四郎宅(写真下)の本営で軍議を開き(写真上)、最終的に南洲翁が解軍を決意し令を出した。

『我軍の窮迫、此に至る。今日の策は、唯、一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際、諸隊にして、降らんと欲するるものは降り、死せんと欲する者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯、其の欲する所に任ぜよ』

かくて西郷は、それまで従ってきた愛犬二頭を解き放ち、陸軍大将の制服と重要書類一切を、児玉宅の庭前で償却した。
 〜江藤淳・著『南洲残影』(文藝春秋社)参考

現在も児玉熊四郎宅宿陣跡に、『軍服焼却の地』が残されています(写真右)。
     西郷菊次郎療養の地

明治10年2月17日高瀬(熊本県玉名市)の戦いで右足に銃創を負った菊次郎(奄美大島で愛加那(アイカナ)との間に生まれた隆盛の長男、17歳)は、延岡陥落を前に成就寺に開設された薩軍野戦病院に入院していましたが、西郷が児玉熊四郎宅に本陣を置くと、その隣りの児玉惣四郎宅(写真左)に身を寄せました。後に台湾宣蘭市庁長、京都市長などを歴任しました。


可愛岳(えのだけ)
              可愛岳突囲

明治10年(1877年)8月17日夜、官軍の包囲網は完成した。翌朝は、西郷本陣を総攻撃する手はずであった。

午後10時、夜陰にまぎれ、総勢600人ほどの薩軍は村人を道案内に、前軍、辺見十郎太、河野主一郎、中軍は、西郷隆盛、別府晋介の乗る二挺の輿を守る桐野利秋、村田新八、後軍は貴島清、中島健彦の隊が粛々として続いた。18日未明、中の越の頂上に達した前軍は、英式ラッパ一声、官軍第一・第二旅団の幕営に突入した。ふいをつかれた官軍は総くずれとなり四散して見事に突囲戦は成した。

しかし、官軍の哨戦は網の目のごとく張りめぐらされていた。道なき道の山岳逃避行は故郷・鹿児島城山まで、半月近く続いた。9月24日、城山・岩崎谷で西郷隆盛自刃。
〜登山口の案内板より

写真は、桐野利秋宿営の地(下)とその裏にある可愛岳登山口(左)。


可愛岳突囲まで


西郷隆盛は、北川(写真上)を小舟でさかのぼり、8月12日、現在『西郷茶屋』というドライブイン(写真下)がある地に上陸しました。




陣宿跡
        吉祥寺

明治10年8月11日夜、延岡市本小路、原時行宅を出た西郷隆盛は、五ヶ瀬川を下り、東海に出、これより北川をさかのぼり、北川町可愛(えの)に着き、児玉安治宅で昼食、陸路、熊田に向った。8月12日の夕刻、熊田の役場(豊後口本営)からさらに小川を渡り吉祥寺(きちじょうじ)にはいる。住職一山和尚は、川坂の農家佐藤平四郎方からそば粉を取りよせ、もてなしたところ、西郷はことのほか喜び、何杯もおかわりしたと伝えられる。
〜 現地案内板より

     
陣宿(小野彦治宅)

明治10年8月12日、一夜を吉祥寺で過ごした西郷隆盛は、翌13日、14日をここ小野彦治宅で過ごしている。8月14火、延岡が政府軍の支配下におかれたことから、薩軍は和田越に終結した。8月15日未明、笹首前面の北川には14、15隻の川舟が用意され、西郷以下薩軍の諸将が乗り込み、差木野に行くよう命じられた午前7時、西南の役最後の激戦和田越の決戦が開始された。この戦いで、西郷は初めて陣頭指揮をとった。
 〜現地案内板より
写真上と中が、吉祥寺(上)と
吉祥寺の西郷隆盛宿陣址の碑。

写真右は、小野彦治宅と
陣宿跡案内板。


薩軍野戦病院跡・成就寺
西郷茶屋から北へ100mくらい行った、国道10号線沿いを走る日豊本線の遮断機のない踏切を越えたところに成就寺があります。延岡陥落を前にここに薩軍の野戦病院が開設されました。

豊後口の山間ではいたるところで激戦が繰り広げられ、多くの死傷者が出、ここに収容されました。

『敷地の南東部には今も当時を偲ばせる墓石が見られる』と案内板にあります。


和田越決戦の地
      和田越決戦

8月15日晴天、南洲翁は開戦以来初めて戦場、和田越山上に立つ。薩軍3,500に対して、政府軍は、5万の兵で攻撃した。

灼熱地獄の中で死闘5時間、午前9時頃砲声、最も激烈11時頃薩軍の一角より敗れ、午後2時頃全軍戦捷空しく敗走、俵野に至る。この戦い南洲翁死処を求めし最後の決戦なり。
〜 現地案内板より

 レポート・可愛岳突囲  村田新八  田原坂を訪ねて

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