レポート | ・西南戦争 〜 可愛岳突囲 |
− 西南戦争 〜 可愛岳突囲 −
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1.西郷南洲延岡入り 明治10年(1877年)2月、鹿児島を発した薩軍は、熊本城攻め、植木・田原坂の激戦に敗れて矢部(熊本県)に退き、人吉・宮崎・都農(つの)を経て、8月2日、西郷南洲翁は初めて延岡入りし、市内大貫の山内善吉家に宿陣した。 10日原時行邸に宿陣、11日北川において舟中露臥、川をさかのぼり、12日上陸し熊田の吉祥寺(きちじょうじ)に宿陣。13日・14日笹首小野彦治家に宿陣し軍議を重ね、15日未明北川を舟で下り、和田越戦場に向った。 一方、各戦場より退却した薩軍は8月14日延岡に集結したが、政府軍の包囲攻撃を受け和田越陵線に退き、明日の決戦に備えて布陣した。延岡隊もこの日、野田(延岡市内)において降伏し、5月薩軍奇兵隊進駐以来の延岡はついに陥落した。和田越決戦、南洲翁初めて戦場に立つ。 2.和田越の決戦 8 月15日晴天、南洲翁は開戦以来初めて戦場和田越山上に立つ。薩軍3,500は長尾山、小梓山、和田越、無鹿山に布陣し、樫山山上に立った。山県有朋中将の率いる政府軍は、稲葉崎、大武方面に布陣し5万の兵で攻撃した。灼熱地獄の中で死闘5時間、午前9時頃砲声、最も激烈11時頃薩軍の一角より敗れ、午後2時頃全軍戦捷空しく敗走、俵野に至る。この戦い南洲翁死処を求めし最後の決戦なり。 〜 以上、和田越の案内板より 3.可愛岳(えのだけ)突囲 8月15日、和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。8月16日、軍議を開き、最終的に西郷が解軍を決意し令を出した。 『我軍の窮迫、此に至る。今日の策は、唯、一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際、諸隊にして、降らんと欲するるものは降り、死せんと欲する者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯、其の欲する所に任ぜよ。』 これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ 1,000名程が残った。一度は決戦と決したが、再起を期すものもあり、選択に迫られた薩軍首脳は8月17日午後4時、官軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突囲(包囲を突破すること)を決意した。 突破の隊編成として、前軍に河野主一郎・辺見十郎太、中軍に桐野利秋・村田新八、後軍に中島健彦・貴島清をおき、池上四郎・別府晋介は約60名を率いて西郷隆盛を護衛した。この時の突囲軍は精鋭約600名であった。 17日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始め、翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。ここから北側地区にいた官軍を見たところ、警備が手薄であったため、薩軍は辺見十郎太を先鋒に一斉に下山攻撃を開始した。不意を衝かれた官軍の第一・第二旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。このため薩軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功した。 〜 以上、フリー百科事典・ウィキペディアより しかし、官軍の哨戦は網の目のごとく張りめぐらされていた。道なき道の山岳逃避行は故郷・鹿児島城山まで、半月近く続いた。9月24日、城山・岩崎谷において西郷隆盛自刃、西南戦争は終結した。 |
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2007.12.08 | ||||
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