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        旅行記 ・薩摩藩家老調所家所蔵品展を訪ねて − 鹿児島県霧島市  2010.06
 薩摩藩家老調所家所蔵品展
(於:霧島市国分郷土館)
波平安廣 脇指(新刀) 調所笑左衛門廣郷所用 薩州調所氏 長さ一尺五寸八分(写真上)
波平安廣脇指(新刀)の鞘(写真上)
その調所廣郷の7代目の御子孫である調所一郎氏・謙一氏兄弟が所蔵する薩摩藩ゆかりのコレクションを展示する、霧島市の平成22年度国分郷土館企画展『薩摩藩家老調所家所蔵品展』が国分郷土館(霧島市国分上小川3819番地)で開催されました(開催期間:平成22年4月24日〜6月30日)。霧島市教育委員会の挨拶文につぎのようにあります。
 
〜 ご来場された皆様方には、ひとつひとつの資料が語りかける歴史に耳を傾けていただき、家老調所廣郷の人となりを思い描いていただければ幸いだと考えております。 〜

 
今回、薩摩拵八振、脇指一振、焼物九点、刀の鍔ニ点の他長持やベルトバックルなど二十数点が展示されました。調所一郎氏と霧島市教育委員会のご好意により写真を撮影させて頂きましたので、いくつかの写真をアップロードしました。
金具が全て銀製の上級武士仕様(写真上・下)
調所廣郷(通称笑左衛門)は、藩主の島津斉興(なりおき)に仕え、使番や町奉行、地頭を歴任し、天保3年(1832年)には家老格、同9年(1838年)には家老になりました。この頃の薩摩藩は500万両あまりの膨大な借金を抱えており、破綻寸前に追い込まれていましたが、廣郷の行財政の改革(天宝元年〜)によって、天保11年(1840年)には250万両ほどの貯えができるまでになりました。幕末の集成館事業や明治維新における薩摩藩の活躍は、ひとえに財政改革を行った調所廣郷のおかげだと言われています。
『佩く』、戦国時代までの様式(写真上)
これ(写真上)は、太刀(たち)で、刀の刃を下にして腰から提げる。『佩(は)く』と表現するが、戦国時代までの様式で、江戸時代に於いては実用よりむしろ藩主からの贈り物や下賜(かし)されるものであった(責め金具が多いのも薩摩の特徴)。上級武士用の仕様である(写真上)
  
   
これ(写真左・下)は、金具が全て銀製で、江戸時代は基本的に銀本位制であったため、かなり高級な仕様である。縁や頭、鐺(こじり)に梵字(ぼんじ)で大日如来などを象嵌してある。鞘(さや)にも銀で蛭巻(ひるま)きが施されている。上級武士の仕様である。、江戸時
金具が全て銀製の上級武士仕様(写真上)
藩主から下賜された茶碗(写真上)
錦手菊花文花瓶(写真上)
白薩摩茶碗
これは(写真左)は、笑左衛門(調所廣郷)が藩主から下賜(かし)されたものである。以前は、江戸時代中期の白薩摩茶碗であると鑑定されていたが、最近の研究では、同時代の京焼であろう、との見方が出ている。
  
これは(写真下)は、江戸時代初期の白薩摩の茶碗である。丸十は呉須(ごす)で書かれ、焼かれたものである。
呉須で丸十で書かれた茶碗(写真上)
錦手菊花文花瓶
白薩摩釉が厚く掛かり、表面はガラス状になっており、貫入は大きく入る。特に肩の部分は釉が厚く、ガラス化しており、小さな発泡の跡が認められる。口は柑子口に作られ、口縁部分及び裾部には菊の花弁や葉を文様化した割文が施される。胴の部分には菊花を豪華に描き、撫子や桔梗が添えられている。銘文は金彩で、丸十に『磯庭』と入れられているが、明治28年(1895年)に磯御庭焼を再興した仙巌窯の作品として考えられる(写真左)
丸十紋付長持(写真上)
錦手花鳥文龍巻六角花瓶(写真上)
京薩摩手桶水指(写真上)
丸十紋付長持
調所廣郷嫡孫・広智(左平太)の長女モトが、明治11年平田家(島津家15代貴久公の家老・平田純貞嫡流)に嫁ぐに際し、島津家より拝領したもの。江戸時代後期の作。現在、調所一郎・謙一兄弟所蔵(写真上) 
錦手花鳥文龍巻六角花瓶
幕末の苗代川(現日置市美山)に於ける作品で、国内用のため、明治期の輸出用の作品に比べて、絵付けが地味である(写真左・下) 
錦手花鳥文龍巻六角花瓶(写真上)
京薩摩手桶水指
青色の独特な発色から、明治期のいわゆる京薩摩の作品だと思われる(京薩摩は、生地を薩摩で製作し、絵付けを京都で施したもの)(写真左)
京金工鍔
(財)日本美術刀剣保存会の田野辺道宏先生より京金工と極められしもの也 調所(写真下)
京金工の鍔(つば)(写真上)
調 所 廣 郷 (ずしょ ひろさと)
安永5年(1776年)3月24日〜嘉永元年(1849年)12月19日
 江戸時代後期の薩摩藩家老である。通称は笑左衛門が一般的。城下士の川崎主右衛門基明の子として生まれ、天明8年(1788年)に城下士の調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、寛政10年(1798年)に江戸へ出府し、隠居していた前薩摩藩主の島津重豪に登用される。のちに藩主の島津斉興に仕え、使番や町奉行、地頭を歴任し、藩が行っていた琉球や清との密貿易にも関与した。天保3年(1832年)家老格、天保9年(1838年)に家老になり、藩の財政、農政、軍制の改革に取り組んだ。
 この時代の薩摩藩は500万両あまりの膨大な借金を抱え、破綻寸前に追い込まれていた。調所は行財政の改革などを行い、商人に借金を無利子で250年の分割払い(実際には明治政府により明治5年(1872年)に債務を無効にされた)にし、さらに琉球を通じて清と密貿易をおこなった。ただ、借金を踏み倒したわけではなく、一部の商人には交換条件として密貿易品などを優先的に取り扱わせ利益を上げさせている。また、大島や徳之島などの砂糖を専売制にし、商品作物の開発を行うなどの改革を行い、天保11年(1840年)には250万両ほどの貯えができるまでになった。
 藩主・島津斉興の長男の斉彬と異母弟である久光の後継者争いがお家騒動までに発展すると、久光側についた。斉彬が藩主になることによって財政が再び悪化することを懸念したためといわれる。斉彬は薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、老中の阿部正弘らと組んで、久光側の失脚を図った。これにより、嘉永元年(1848年)、江戸に出府した廣郷は阿部に糾弾され家格を下げられた。同年芝藩邸にて急死した。服毒自殺といわれる。借金の踏み倒しや、砂糖の専売により奄美の人々を苦しめたというのが調所廣郷のイメージとして強いが、実際、借金は着実に返済し、商人に対しては利益を上げさせ、殖産・農業の改革、軍制の改革に成功し、甲突川五石橋の建設などの出費があったものの貯蓄があった。また、苗代川地区の薩摩焼の増産と陶工たちの生活改善に尽くしたことから同地区では廣郷への尊崇の念がいまだに強い。斉彬側の反発の矢面に立たされたために悪人にされてしまったのであろう。廣郷の時代よりも斉彬が藩主になって以降に税率が上げられている。明治維新における薩摩藩の活躍はひとえに財政改革を行った調所廣郷のおかげといえるのではないだろうか。
以上、展示会場の説明文を転載。
【編集後記】
調所廣郷のことを知ろうと鹿児島市天保山公園にある銅像や鹿児島市平之町平田公園前にある屋敷跡、そして日置市美山にある招墓などを訪ね回ったのは、NHK大河ドラマで『篤姫』が放映された一昨年(2008年)春のことでした。大河ドラマでは、第1〜2回で調所廣郷を演じた平幹二朗さんの演技が好評だったことが印象に残っています。そして、今回由来の品々に接することができて有意義でした。
     
     
  レポート ・調所広郷   調所広郷ゆかりの地
    
    
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