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調所広郷ゆかりの地〜篤姫の周辺− 鹿児島県
                        (
2008年NHK大河ドラマ『篤姫』の第1〜2回で、平幹二郎さんの調所広郷(ずしょひろさと)役の演技が好評だったようです。篤姫の父・忠剛は、厳しい財政改革を進める家老・調所広郷から農民に手ぬるいと批判され、処分を受けることになります。納得できない篤姫は肝付尚五郎と調所に会いに行きます。調所は、『琉球で抜け荷をしている』と隠しもせず話し、薩摩藩のための役割を果たしているだけだ、それが天命だと説きます。『それ以外の手立て、役割を超えた手立てはないものでしょうか。』という篤姫に調所は強烈な印象を持ちます。幕府老中・阿部正弘から密貿易などについて問われると、調所は罪を一身にかぶるため江戸薩摩藩邸で毒をあおって自害してしまいます。調所の自害を知った篤姫は、調所広郷の屋敷を尚五郎を伴って訪ねます。門は閉ざされています。『本当は心優しい人なのに』と篤姫。『藩の罪を全て背負って死んでしまわれたのです』と尚五郎が言うと、『誰かの罪をかぶって死ぬ等と天が望む訳がありません。そんなの違います。』と篤姫。調所広郷ゆかりの場所を訪ねました。           (旅した日 2008年01月)


調所広郷(ずしょひろさと)

       
調所広郷の像
      (通称 笑左衛門)

       
 1776〜1849年

幕末に近い文政10年(1827年)薩摩藩の
借金は、500万両の巨額に達していた。当時の藩の年収総額10数万両は、借金金利に遠く及ばず、正に破産の危うきにあった。時の島津重豪(しげひで)公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。

調所広郷はその期待に応え
巨額の負債を解決し、あまつさえ50万両の蓄えさえ残した。更に藩政の興隆を図り、数々の土木工事を行った。平成5年8・6水害で惜しくも決潰あるいは撤去されたが、広く県民に親しまれた西田橋など甲突川五石橋も、天保山の造成も全て調所の発案である。

改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通じた中国貿易の拡大、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。

だが歴史は時の為政者によって作られる。調所広郷は幕府に呼ばれ、
密貿易の罪を負い自害に追い込まれ、今も汚名のままである。しかし、斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業・富国強兵策・軍備の改革の資金も、明治維新の桧舞台での西郷・大久保の活躍も全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからだと思う。

此処に調所広郷の銅像を建立し、偉業の後世に遣ることを願う。

〜鹿児島市天保山公園にある調所広郷像(平成10年3月除幕)より〜


調所広郷邸跡
薩摩藩は、木曽川工事や参勤交代の費用等が重なって、天保年間、ばく大な借金に苦しめられていました。このとき、島津家第25代重豪から、幕府の非常時に備えるために50万両と、他に金納・非常手当に金を貯えること及び古借証文の取り返しを命じられたのが、調所笑左衛門広郷でした。調所は奄美の黒砂糖を専売制度にしたりして、財政の建て直しを実現し、それが、幕末から明治維新における薩摩藩の活動の源泉となりました。また、甲突川のしゅうせつや天保山の造成、五大石橋の建造等も行ないました。(案内板より引用) 
屋敷跡在地/鹿児島市平之町、平田公園前


甲突川五大石橋
鹿児島市街中央を流れる甲突川には上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の五つの大きなアーチ石橋が架かり、『甲突川五大石橋』と呼ばれて親しまれていました。江戸時代末期の1840年代に調所広郷の発案で架けられたもので、薩摩藩の財政と肥後の名石工『岩永三五郎』の架橋技術を誇る歴史的所産でしたが、1993年8月6日の水害で新上橋と武之橋が流失してしまい、その後、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、西田橋、高麗橋、玉江橋の3つの橋が河川改修に合わせ、2000年に鹿児島市街の北端に位置する祇園之洲公園内に移設復元され、石橋記念公園として開園しました。

写真は、大河ドラマ『篤姫』にも登場した西田橋で、城下の玄関口として、橋の左岸には御門があって、通行人は御門脇の番所で改めを受けて通行していました。


美山の招墓
美山にある調所広郷と村田堂元の招墓
鹿児島市街から西へ約20km、日置市美山は薩摩焼のふるさとで、現在でも12の窯元があり、薩摩焼400年の歴史が今なお息づいています。その美山の大通りを西に進むと、その外れに朝鮮神話の始祖『壇君』を祀るという玉山神社があって、その手前に調所広郷の死後一年後に建立された召墓(写真上)があります。

案内板に次のようにありました。

『調所笑左衛門は天保10年(1838年)家老となるや藩財政の立て直しを成功させた人物である。〜
美山の大通り(上)と登り窯(右)
〜 このころ行き詰っていた苗代川(美山の旧称)の陶業と住民の生活を立て直すために、笑左衛門が苗代川に派遣したのが村田堂元甫阿阿弥である。二人の名コンビにより打ち出された数々の施策が苗代川の人々を救った。たとえば、南京焼、素焼彩色人形の奨励や肥前伝焼物窯の建設、他産地から技術者を呼び、陶工の技術向上を図るなどがそれである。また、婦女子には木綿織などの内職をさせ、新産業を起した。この二基の墓は二人に感謝して苗代川の人々が嘉永元年(1848年)に招魂墓として建てたものを現在地に移転したものである。』

編集後記
■調所広郷の屋敷跡が鹿児島市平之町にあるというので出かけてみようと、観光案内所に詳しい場所を問い合わせると、30分ほどして折り返し電話があり、道路をはさんで平田公園の真向かいにあるといいます。くしくも、平田公園はあの木曽三川の宝暦治水工事の総奉行・平田靭負(ひらたゆきえ)の屋敷のあった場所で、現在は公園となり平田靱負の銅像が建てられています。幕府より治水工事を命ぜられた当時すでに66万両の借金のあった薩摩藩は、この工事でさらに30万両とも40万両とも言われる借金を余儀なくされます。ここに始まる薩摩藩の借金と80年後に真正面から向い合ったのが調所広郷でした。■鹿児島市池之上町に、かつて島津家の菩提寺だった福昌寺跡があります。その寺跡の囲い内には歴代藩主らの墓が並び、その外には由緒墓があります。その中に、調所広郷の最近新調された感じの墓(写真左)がありました。
■調所広郷の七代目のご子孫に当る調所一郎さんが、2006年4月に鹿児島市磯の仙巌園で行なわれた曲水の宴で歌を披露されていたのを思い出し、下記に記載しました。




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