レポート | ・調所広郷 |
− 調所広郷 −
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その一 2008年NHK大河ドラマ『篤姫』の第1〜2回で、平幹二郎さんの調所広郷役の演技が好評だったようです。幕府老中・阿部正弘から密貿易などについて問われると、調所は罪を一身にかぶるため江戸薩摩藩邸で毒をあおって自害してしまいます。調所の自害を知った篤姫は、調所広郷の屋敷を幼なじみの肝属尚五郎を伴って訪ねます。門は閉ざされていました。 1.1 調所広郷屋敷跡 その屋敷跡が鹿児島市平之町にあるというので出かけてみようと、観光案内所に詳しい場所を問い合わせると、30分ほどして折り返し電話があり、道路をはさんで平田公園の真向かいにあるといいます。 くしくも、平田公園はあの木曽三川の宝暦治水工事(1754〜1755年)の総奉行・平田靭負(ひらたゆきえ)の屋敷のあった場所で、現在は公園となり平田靱負の銅像が建てられています。幕府より治水工事を命ぜられた当時すでに66万両の借金のあった薩摩藩は、この工事でさらに30万両とも40万両とも言われる借金を余儀なくされます。ここに始まる薩摩藩の借金と80年後に真正面から向い合ったのが調所広郷でした。 1.2 第8代藩主・島津重豪(しげひで) 宝暦治水工事完了当時 100万両だった薩摩藩の借金は、第8代藩主・島津重豪のとき、500万両(1両を7万円として、3,500億円)にまで膨れ上がります。 鹿児島市磯の尚古集成館(島津家に関する歴史資料館)内にあるパネルは、『薩摩を生まれ変わらせた殿様−島津重豪』と題し、江戸時代半ば、『蘭癖(らんへき)』といわれるほど、海外の情報・文化に強い関心を示した島津重豪は、熱心に開化政策を推進して文化水準向上を図り、また将軍の岳父(がくふ、妻の父)として権勢を誇り、島津家の地位を大幅に向上させた、と島津重豪のことを説明しています。 島津重豪は、宝暦5年(1750年)にわずか11歳で薩摩藩主に就任してから、天明7年(1787年)に隠居するまで32年間もその地位にあり、さらに天保4年(1833年)89歳で死去するまで藩政に関わり続けました。 この間、藩校造士館・演武館・医学院・天体観測所明時館(天文館)を創設、薬用植物の効能を中国の学者に質問してその回答をまとめた『質問本草』、中国語を研究した『南山俗語考』、農業を研究した『成形図説』、『島津国史』など、多くの書を刊行しています。後に藩主となる島津斉彬(なりあきら)が聡明で開明的だったのも、この重豪による影響が大きかったといわれています。 重豪は、80歳を越えても薩摩から江戸や長崎へと各地を東奔西走するほど頑健な人でした。老いてますます盛んな重豪は、曾孫の斉彬と共にシーボルトと会見し、オランダ語を使って当時の西洋の情況を聞いたりしたといわれます。 重豪はまた絶倫の人でした。沢山の子供を作り、しかも積極的に政略結婚を進めます。次男に中津藩主となった奥平昌高、四男に加治木島津家に入った島津忠厚、七男に丸岡藩5代藩主有馬誉純の養嗣子となった有馬一純、十二男に福岡藩主となった黒田長溥、十三男に南部八戸藩主となった南部信順、次女に奥平昌男婚約者、八女に松平定和室、九女に戸田氏正室、十女に柳沢保興室、十一女に戸沢正令室、などがいます。 そして、三女・茂姫(広大院)が第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の正室となると、江戸時代後期の政界に絶大な影響力を持つようになり、『高輪下馬将軍』(高輪に藩邸が所在した)と称されました。 1.3 500万両の借金 一方で、重豪のこれらの政策に伴う莫大な出費は、巨額の借金を生むことになりました。天明7年(1787年)1月、家督を長男の斉宣(なりのぶ)に譲って隠居しますが、重豪はなおも実権を握り続け、文化6年(1809年)、斉宣が緊縮財政政策を行なおうとすると、華美な生活を好む重豪は斉宣の政策に反対して彼を隠居させ、孫の斉興(なりおき)を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握りつづけました。 しかし、文政10年(1827年)に、薩摩藩の借金は 500万両の巨額に達してしまいます。当時の藩の年収総額10数万両は、借金金利に遠く及ばず、まさに破産の危うきにありました。ここにきて、重豪もようやく藩の財政改革に取り組み、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢し、藩財政改革を厳命することになります。(以上、『ウィキペディア (Wikipedia)』を参照) その二 第8代薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の政策は、藩の文化水準の向上を図り、藩の地位向上に寄与するものでしたが、後先を考えない文化事業やつきあいに伴う出費が巨額にかさみ、薩摩藩は農民ばかりではなく武士階級にも高負担を強いる財政構造に転落していました。 そののち、調所広郷が 500万両という額に膨らんだ借金に真っ向から取り組むことになるのですが、その前に、この時期に起きた近思録崩れ(きんしろくくずれ)という薩摩藩のお家騒動に触れておかねばなりません。 2.1 重豪の浪費と市田盛常の専横 重豪は、天明7年(1787年)家督を長男の斉宣(なりのぶ)に譲って隠居したものの、第9代藩主となった斉宣が若年であることを理由に藩政を牛耳り続けます。正室と早々に死別した重豪は、多数の側室を抱えていました。本来ならば、藩主となった斉宣の母である側室・堤氏(お千万の方)を正室並待遇とするはずですが、第11代将軍・徳川家斉の正室となった三女・茂姫の母である側室・市田氏(お登勢の方)を江戸に留め、正室並待遇としました。 お登勢の方は、重豪に願って弟の市田盛常を重豪の側用人に取り立て、のちに一所地格・家老に取り立てます。一所地格は、本来、島津氏一門でないとなれない地位で、御台所(将軍の正室)の叔父であるための破格の扱いでした。薩摩藩政は、市田盛常の言うがままに動くという専横状態になり、重豪の浪費と相まって、重豪と市田盛常に対する家臣の反発が高まっていきます。 2.2 近思録党 そのような状況の中で、藩主・斉宣の我慢も限界に達しました。文化2年(1804年)に、江戸藩邸が全焼し、その再建のためにも早急な財政改革を迫られた斉宣は、父の代から居座っていた家老たちに隠居や剃髪を命じ、文化4年(1806年)当時まだ30歳に過ぎなかった樺山主税(かばやまちから)を家老に抜擢し、樺山は『近思録』(朱子学をはじめて学ぶ人のための入門書)の読書仲間であった秩父季保を家老に推挙します。 権勢を欲しいままにした市田氏(お登勢の方)が享和元年(1801年)に死去すると、斉宣は、文化5年(1808年)に市田盛常を突如国元に帰国させ家老職から罷免、盛常嫡男・市田義宜も小姓組頭を免職となり、市田一族を薩摩藩政から追放しました。 市田盛常追放後、樺山久言・秩父季保ら『近思録党』中心の藩政になりましたが、その政策は、これまで重豪が力を入れてきた蘭学関係や鷹狩り等の施設を廃止するものだったため、重豪の逆鱗に触れることとなり、また、近思録一派の者しか優遇しなかったこともあって、急速に国元の支持を失っていったとされています。 2.3 近思録崩れ(きんしろくくずれ) そして、重豪の逆襲が始まります。斉宣は、市田盛常の後任の江戸家老に、島津一門の一人である島津安房を任命し江戸に向わせます。ところが、島津安房は江戸に到着するも幕府老中への目通りが許されません。重豪が、つてを使って目通りできないよう妨害したのでした。そのため、斉宣の意向が江戸に伝わらない事態になり、斉宣の改革はとん挫する形になりました。 文化5年(1808年)、重豪は『近思録党』に属していたと見られた藩士を順次処分します。いわゆる『近思録崩れ』です。別名、『文化朋党事件』あるいは『秩父崩れ』ともいわれます。処分者は、切腹13名、遠島25名、剃髪42名、逼塞23名、謹慎など12名、のちに起きる『お由羅騒動』より多い数にのぼりました。この後、廃止されていた鷹場などの施設の復活が決定され、市田盛常の長男・義宜が勘定奉行という重職に任命されました。 2.4 その後 島津重豪もこの事件で財政にようやく目を向けるようになりました。しかし、そのときに採った政策は『大坂の大名貸しに直接徳政(債権・債務の契約破棄)を命ずる』というとんでもないものでした。そのため、その後薩摩藩に金を貸す大名貸しがいなくなり、市中の高利貸しから金を借りる事態に陥り、かえって天文学的な借財をつくる原因となりました。薩摩藩の財政は、重豪が晩年に調所広郷を家老に抜擢するまで根本的には改善されないままの状態が続きます。 一方、国元薩摩の下級藩士の間では、『近思録党』は『藩に殉じた悲劇の士』として語られ、西郷隆盛や大久保利通など多くの藩士が『近思録』を読み、結党するようになります。そして、皮肉なことにこれらの藩士が後に重豪が寵愛した島津斉彬の擁立に活躍することになるのです。(以上、『ウィキペディア (Wikipedia)』から引用、編集) 調所広郷は、城下士(鹿児島城下に住む藩士)・川崎主右衛門基明の息子として生まれ、城下士・調所清悦の養子となります。茶道職として出仕し、寛政10年(1798年)に江戸へ出府。それより11年前に家督を長男の斉宣(なりのぶ)に譲って江戸で隠居中だった前薩摩藩主・島津重豪(しげひで)にその才能を見出されて登用されます。 それから7年後の文化6年(1809年)、近思録崩れの責任を取る形で斉宣が父・重豪によって強制隠居させられ、斉宣の子の島津斉興(なりおき)が第10代藩主になると、調所は、斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任、藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わります。 その三 3.1 調所広郷の財政改革 重豪が89歳で大往生を遂げる一年前に家老格に出世、そして、天保9年(1838年)、家老に出世すると、藩の財政改革に着手します。このとき、薩摩藩の借金は 500万両の巨額に達していました。当時の藩の年収総額10数万両は、借金金利に遠く及ばず、まさに破産の危うきにありました。 このような財政状況の中で、広郷は行政改革・農政改革に着手。商人を脅迫して借金を無利子で 250年の分割払いにさせます。つまり、返済が2085年までに及ぶ分割払いとしましたが、実際には明治5年(1872年)の廃藩置県後、明治政府によって債務の無効が宣言されています。 琉球を通じて清と密貿易を行なう一方で、大島・徳之島などから取れる砂糖を専売制にし、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に 250万両の蓄えが出来る程にまで財政を回復させました。 3.2 世継ぎ争い やがて藩主・斉興の後継者を巡る、斉興の長男・島津斉彬(なりあきら)と三男久光による争いがお家騒動(のちのお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派にくみします。これは、聡明だが、かつての重豪に似て西洋かぶれである斉彬が藩主になると再び財政が悪化すると懸念してのことであったといわれています。 斉彬は、幕府老中・阿部正弘らと結託し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興、広郷らの失脚を図ります。嘉永元年(1848年)、江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問(きゅうもん)されると、広郷は同年12月、江戸藩邸にて急死、享年73歳。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺と言われています。死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられます。 3.3 調所広郷の評価 黒砂糖が利潤幅の大きい商品だということに目をつけた広郷は、黒砂糖を藩の専売制としただけでなく、奄美群島の人々に黒砂糖の原料となるサトウキビ以外の作物の栽培を禁止し、米は薩摩藩から通常の市場価格より高い値段で売りつけます。サトウキビも安く買い上げた上に、税は厳しく取り立てました。 そして、借金の返済では証文を燃やしたり商人を脅したりして途方もない分割払いを成立させ、そのため多くの領民を苦しめた極悪人という低い評価がありました。加えて、その後、斉彬派の西郷隆盛や大久保利通が明治維新の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け一家は離散します。 広郷の財政改革が後の斉彬や西郷らの幕末における行動の基礎を作り出し、現在の日本の近代化を実現させたと評価されるようになったのは戦後のことであるといわれています。(以上、『ウィキペディア』から引用、部分を編集) *** 薩摩焼のふるさと・鹿児島県日置市美山に、『調所笑左衛門広郷と村田堂元の招墓』という墓があり、鹿児島市天保山公園には、平成10年3月除幕された『調所広郷像』があって、以下のような添え書きがあります。 〜行き詰っていた苗代川(美山の旧称)の陶業と住民の生活を立て直すために、笑左衛門(調所広郷の通称)が苗代川に派遣したのが村田堂元甫阿阿弥である。二人の名コンビにより打ち出された数々の施策が苗代川の人々を救った。たとえば、南京焼、素焼彩色人形の奨励や肥前伝焼物窯の建設、他産地から技術者を呼び、陶工の技術向上を図るなどがそれである。また、婦女子には木綿織などの内職をさせ、新産業を起した。この二基の墓は二人に感謝して苗代川の人々が嘉永元年(1848年)に招魂墓として建てたものを現在地に移転したものである。〜 美山の招墓より 〜改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通じた中国貿易の拡大、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。だが歴史は時の為政者によって作られる。調所広郷は幕府に呼ばれ、密貿易の罪を負い自害に追い込まれ、今も汚名のままである。しかし、斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業・富国強兵策・軍備の改革の資金も、明治維新の桧舞台での西郷・大久保の活躍も全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからだと思う。此処に調所広郷の銅像を建立し、偉業の後世に遣ることを願う。〜 調所広郷像より 調所広郷の死後、お由羅(ゆら)騒動を経て、島津斉彬が第11代薩摩藩主に就任します。斉彬43歳のときでした。50歳で急死するまでの7年間に斉彬が推進した富国強兵・殖産興業政策、いわゆる集成館事業が明治維新の原動力となっていきます。 (完) 【備考】下記の旅行記が参考になります。 ■旅行記 ・調所広郷ゆかりの地〜篤姫の周辺 − 鹿児島県 → http://washimo-web.jp/Trip/Zusyo10/zusyo10.htm |
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2008.03.03 | ||||
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