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旅行記 ・ヴェネツィアの風景 − イタリア(2) 2014.07
ジュデッカ運河
ジュデッカ運河 ヴェネツィア本島南岸から南へ約400m隔てたサン・ジョルジョ・マッジョーレ島やジュデッカ島の間を東西に流れているのがジュデッカ運河。サン・マルコ広場の内湾へ流れ込み、カナル・グランデにも繋がっていて、ヴェネツィア本島の南の玄関口です。上の写真は、サン・マルコ広場の内湾へ入ってくるゴンドラ。後方は、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。
東方貿易の拠点として巨額な富を生んだ運河通り。上の写真は、ドゥカーレ宮殿(写真の左手前の建物)から東へジュデッカ運河沿いに建ち並ぶ建物と、その前を往来する人々の群れ。ドゥカーレ宮殿から西方のカナル・グランデ河口にはサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂があるなど、ジュデッカ運河沿いには歴史的建造物も多いです。
聖テオドロスと有翼の獅子の像 サン・マルコ寺院からジュデッカ運河を見ると、高い石柱のてっぺんに9世紀以前のヴェネツィアの『守護聖人聖テオドロス』の像(右)と9世紀以降の守護聖人聖マルコの象徴『有翼の獅子』の像(左)が載っています(写真上)。運河の向こう側に見えるのが、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島(左)とジュデッカ島(右)です。
ヴェネツィアでは、彫刻、絵画など美術品の中だけでなく、街の至るところで、レリーフや装飾などに『羽根の生えたライオン』(有翼の獅子)を見ることができます。それだけ、有翼の獅子はヴェネツィア人にとって愛着のあるものであり、とても大切なものでした。それは、ヴェネツィアの街の守護聖人である『聖マルコ』のシンボルが『有翼の獅子』だったことに由来します。
ドゥカーレ宮殿
ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale) ヴェネツィアの玄関口であるサン・マルコ広場に、ジュデッカ運河に面して建っている豪奢な造りの建造物が『ドゥカーレ宮殿』です。ヴェネツィア共和国の政庁兼宮殿として使用されてきました。大統領官邸、裁判所、国会議事堂などの役割を果たしていた部屋が現存し見ることができるほか、武器庫や監獄なども見ることができます。
ヴェネツィア・ゴシック様式の代表建築といわれるドゥカーレ宮殿は、白とピンクの大理石で飾られた壁面と、建物を支えている独特の大小のアーチ列柱がの美しいです。ドゥカーレ宮殿のファサード(正面をなす外観)も、それを描く人も、また通行する人たちの光景も美しいです(写真上)。
内部に大きな中庭を持ち、それをぐるりと建物が取り囲む形になっていて、南側はジュデッカ運河に、西側はサン・マルコ小広場に面しています。上の写真のように、北側はサン・マルコ大聖堂に隣接していて、中庭から見ると背後にサン・マルコ大聖堂の丸いドーム(イタリア語でクーポラ)が見えます。
一方で宮殿の内部は、金で装飾された天井がまばゆいばかりの『黄金の階段』があったり、15〜16世紀に活躍したティントレットなどヴェネツィア派の画家たちの壁画や天井画が並び、簡素な回廊の造りとは正反対に、重厚華麗な装飾が施された部屋の造りになっています。
サン・マルコ広場
サン・マルコ広場 サン・マルコ大聖堂のほか、ドゥカーレ宮殿などが面する広場である『サン・マルコ広場』は、共和国時代の政治・宗教の中心地で、18世紀末にナポレオンが占領したとき、『屋根のない宮殿』と絶賛したといいます。上の写真は、サン・マルコ大聖堂から見るサン・マルコ広場。右手が『旧行政館』で、左手が『新行政館』、正面に見えるのが『ナポレオン翼』(サン・マルコ寺院に対面する建物。ナポレオンが舞踏会などの会場として建てさせたため、この名があります)。
ジュデッカ運河の方からサン・マルコ大聖堂を見たのが上の写真です。中央手前に建つのが『有翼の獅子』の載った石柱。右手の建物が『ドゥカーレ宮殿』。その奥に見えるのが『サン・マルコ大聖堂』。左手の建物が『新行政館』。その奥に建つ塔はサン・マルコ広場の『鐘楼』で高さが100mあります。
サン・マルコ大聖堂
サン・マルコ大聖堂 9世紀になるとヨーロッパ各国ではその国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮になりました。ヴェネツィアも守護聖人を求めていたところ、福音書著者・聖マルコの遺骸がエジプトのアレクサンドリアにあり、ムスリム(イスラム教徒のこと)に奪われる恐れがあることを聞きつけ、 828年、それを奪い取り、ヴェネツィアに運びました。
この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになります。聖マルコの遺骸を安置する場所として礼拝堂を建てたのが、サン・マルコ大聖堂の起源です。 976年に焼失して再建、更にヴェネツィ共和国の威信を示すため1063年から 400年がかりで今の大聖堂に建て替えられました。数少ないギリシャ正教の聖堂としてモザイク模様が荘厳です。
モザイク画は、赤や青、黄色などの色のついたガラスの1つ1つの片(テッセラと呼ばれる)を漆喰(しっくい)の地に埋め込んで行って絵を描きます。上の写真は、サン・マルコ大聖堂のファサード(正面をなす外観)のアーチ部に描かれたモザイク画の一つで、『ヴェネツイア総督および市民の聖マルコ遺体歓迎』の絵です。
カッフェ・フローリアン
カフェ・フローリアン サン・マルコ広場には、3つの老舗カフェがありますが、最も古くて有名なのが、『カフェ・フローリアン』(Caffe Florian)です。1720年、サン・マルコ広場南側の現在の新行政館の回廊に創業し、今も同じ場所で営業を続けています(他に、1775年創業の『カフェ・クアードリ 』(Caffe Quadri) と1869年創業の『カフェ・ラヴェーナ』(Caffe Lavena)があります)。
カフェ・ラッテ(コーヒーと牛乳、特にエスプレッソと牛乳を混ぜた飲み物)の発祥の店としても知られています。芸術家、知識人、政治家や著名人たちの社交の場として、ゲーテ、ワーグナー、カサノヴァ、スタンダール、ブルースト、モネなど多くの著名人が訪れたと言われています。
写真にあるように夏場には、サン・マルコ広場にテーブル席が設けられ、テーブルに着きながら生演奏を楽しむことができます。但し、座ると席代が取られます。この『カフェ・フローリアン』は、キャサリン・ヘプバーンが主演を演じた1955年制作・公開のイギリスとアメリカの合作映画『旅情』に登場したことでも知られています。
ムーア人の時計塔
ムーア人の時計塔 広場からサン・マルコ寺院を見て左手、旧行政館の並び、リアルト橋へと続くメルチェリア通りに建つのが『ムーア人の時計塔』(写真上)。1499年に建造されてから500年以上もの間をヴェネツィアの時を刻み続けてきました。青地に金色の星座表とローマ数字が刻まれた大時計は、大理石とラピスラズリ(和名で瑠璃(るり)と呼ぶ青金石)でできています。
大時計の上には、前面に張り出した半円のテラスに聖母子像とその両側にデジタル時計が置かれ、さらにその上には、ヴェネツィアの守護神聖マルコのシンボルである『有翼のライオン』が置かれています。そして屋上には、大きな鐘とそれを打つカラクリ式のムーア人の像2体があります。
北西アフリカの民族であるムーア人は、名作「ヴェニスの商人」に登場するなどヴェネツィアとの交流が深かったといわれます。
鐘が鳴る際、このムーア人が打ち鳴らす仕草をすることから、『ムーア人の時計塔』と呼ばれている。時計は 500年の間に何度も修理されながら、今なお正確に時を刻んでいます。
マスケラ
ヴェネツィアのカーニバルとマスケラ 毎年2月末から3月初めまで2週間かけて行われヴェネツィアのカーニバル(謝肉祭)は、ブラジルのリオ、カリブ海のトリニダード・トバゴのカーニバルとともに、世界の三大カーニバルに数えられています。ヴェネツィアのカーニバルは、『マスケラ』という個性豊かな仮面ときらびやかなコスチュームに身をまとった仮装行列が街を行き交うのが特徴で、ヴェネツィア本島内のあちこちで、『マスケラ』などのカーニバルグッズが売られています。
カーニバル発祥の11世紀の頃のヴェネツィア共和国では、共和制といっても少数の貴族による独裁色の強い政治、いわゆる寡頭政治が行われていました。そこで、当時の総督が国民の反発を和らげるために、仮面と仮装で身分を隠し、思う存分無礼講で楽しむ機会を与えたのが、ヴェネツィアのカーニバルの始まりだそうです。
 ヴェネツィアン・グラス
ヴェネツィアン・グラス 東方諸国との貿易で多くの財を成したヴェネツィア共和国。その交易品の中で最も珍重されたのがヴェネツィアン・グラスでした。自国の重要な輸出製品が他国に模倣されることを恐れたヴェネツィア共和国は、1291年にすべてのガラス工場をムラーノ島に集め、職人やその家族など、すべての関係者をムラーノ島に強制移住させ、ヴェネツィアン・グラスの保護策をとりました。この歴史的背景から、現在もヴェネツィアン・グラスの工場はすべてムラーノ島にありますが、今回はヴェネツィアの街の販売店でヴェネツィアン・グラス製作の実演をみました。
フェニーチェ劇場
フェニーチェ劇場(Teatro La Fenice)  17世紀直前、フィレンツェの貴族のサロンで誕生したオペラは、まもなくイタリア各地で作曲されるようになった。特に、東方貿易で富を蓄えた貴族や市民たちが力を持ち、イタリアきっての強力な共和国として独自の文化を誇っていたヴェネツィアでは、貴族が私的な劇場を市民に開放しました。
フェニーチェ劇場は、1792年5月16日に開場した劇場です。イタリア語でfeniceは不死鳥を意味し(英語のphoenix)、1773年に火災で焼失したヴェネツィアの他の歌劇場の後継を自負して名付けられたものですが、この劇場自体、1836年と1996年の2度にわたって火災により全焼しました。しかし、その都度再建がなされ、『不死鳥』の名にふさわしい歴史を誇っています。
運河と橋
ヴェネツィア本島内の道は、自動車が入れないばかりか、自転車の離合もままならないほど狭いため自転車の乗入れすら禁止されています。その代り、運河を開き、橋を架けて水運を発達させました。150を超える運河に400におよぶ橋が架かっているそうです。橋は全部が歩行者専用です。
従って、何世紀もの間市内の輸送をになったのは、ゴンドラ ( gondola) と呼ばれる手漕ぎボートでした。今は、水上バスやフェリーが市民や貨物を運んでいて、ゴンドラは観光に利用されている。ホテルには、正面玄関とは反対の裏側にゴンドラや水上タクシーの専用接岸を持っています。
ゴンドラに揺られて
オルセオロのドック サン・マルコ広場の出入口から50mのところにある『オルセオロのドック』は、ヴェネツィアの伝統的な渡し船であるゴンドラが町の中心で接岸できるように1869年に作られたもので、ホテル・カヴァレット&ドージェ・オルセオロに面している水域の名は、遥か昔10世紀にこの地域に沢山住んでいた家主オルセオロ家の名に由来しているそうです。
『オルセオロのドック』から
ゴンドラに乗り込んで、舟旅に出かけました。今回の私たちのツアーは、添乗員さん1名を加えて
23名だったので、3艘のゴンドラに分乗しました。
ゴンドラに乗って運河を行き交う人たち、
橋からゴンドラを見下ろす人たち、年代物の建物のレンガ漆喰(しっくい)壁、飾られている鉢植えの花々、あるいは
運河沿いの狭い道路を行き交う人たちが、ヴェネツィアの風景を作り出しています。
3艘のゴンドラうち、
真ん中のゴンドラにはカンツォーネ(イタリアの大衆歌曲)を歌ってくれる人と
オルガン伴奏の人が乗り込みました。
ゴンドラと行き交うゴンドラ。
載っている人も日本人、中国系らしい人たち、そしてヨーロッパの人たち、
アメリカの人たちといろいろなようです。
両側に建つ建物が運河幅を狭く感じさせます。
ここで、カンツォーネの披露が始まりました。運河沿いを沿いを行き交う人たち、行き交うゴンドラに
乗船している人たち、そして橋を行く人たちも振り向きます。
ゴンドラは、逆S字を描いて
島内を二分して流れるカナル・グランデ(大運河)のに出ました。水上タクシーや水上バスも
行き交っていて、幾分混雑してきました。
カナル・グランデの岸には
客を待つゴンドラが待機しています(写真上)。再び狭い運河に戻ってきました。ゴンドラを降りて昼食をすませると、
いよいよヴェネツィアともお別れ。つぎの旅行先のフィレンチェへバスで移動です。
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